日本歴史地名大系 「末包村」の解説 末包村すえかねむら 兵庫県:佐用郡佐用町末包村[現在地名]佐用町末包大畠(おおばたけ)村の北西、江川(えかわ)川上流右岸の谷を深く入った標高三〇〇―四〇〇メートルの山間地に立地する。末包・谷(たに)・小中山(こなかやま)の三集落がある。北と西は美作国吉野(よしの)郡宮本(みやもと)村(現岡山県大原町)。慶長国絵図に末金村とみえる。江戸期の領主の変遷は平谷(ひらだに)村に同じ。正保郷帳では田方一七八石余・畠方五一石余、旱損所、芝山、小松はへ有と注記される。天保郷帳では高二四一石余。享保一六年(一七三一)領主の賄銀返済をめぐり難渋した百姓を代表し、当村次郎右衛門ら五人が江戸へ出訴し、所払に処されている(田住家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報