観音寺跡(読み)かんのんじあと

日本歴史地名大系 「観音寺跡」の解説

観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]金峰町尾下

金峰山金蔵こんぞう院と号し、江戸時代後半には真言宗。金峰山の頂上の蔵王ざおう権現社(現金峰神社)の別当寺であった。明治二年(一八六九)廃仏毀釈で破壊された。「三国名勝図会」によると本尊は十一面観音で、推古天皇二年、日羅が蔵王権現を勧請した際に阿多浦之名あたうらのみように当寺を建立したと伝える。浦之名に観音寺原かんのんじばる地名が残り、跡地の日枝ひえ神社には古石塔二〇基ほどが残る。保延四年(一一三八)一一月一五日の平忠景寄進状案(二階堂文書)によれば、阿多郡郡司忠景が当寺の祈祷料として観音寺四方四至内相伝の私領である阿多郡牟田上むたがみ浦壱曲荒地を寄進している。四至のうち東の東小谷は現東谷ひがしたに、西の船田は現船田ふなだ、南の神狩蔵は現鹿倉かくらあるいは平鹿倉ひらかくらそれぞれ比定できる。


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]飯田市伊豆木

「三代実録」の元慶五年(八八一)一〇月一七日条に、「以信濃国伊那郡観音寺天台別院」と記されている。天台別院観音寺については、関係史料は皆無であるが、その所在地は飯田市伊豆木二四〇〇番地を中心とする一帯と推定されている。その根拠として、観音寺とよばれる地字は郡下に当所のみであること、字観音寺を中心として大門だいもんどういり門田かどた薬師址やくしあとなどの地字が散在すること、推定古代東山道の通路に近いことなどがあげられている(下伊那史)


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]城陽市大字市辺

椎尾しいのお山の支峰である飯盛いいもり山・高塚たかつか山辺りの山中にあった寺院と推定され、寺号を椎尾山と号した。

椎尾山観音寺縁起(「青谷村誌」所収)に、行基が椎尾山中の唐櫃からとの滝(椎尾の滝)で参籠中、あわ大明神社(現粟神社)の神告によって、椎木で十一面千手観音像を造って安置したのに始まるという。一説にこの仏像は長谷はせ(現奈良県桜井市)の観音の模刻であったので新長谷しんはせ寺とも称したという(青谷村誌)


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]寝屋川市仁和寺本町三丁目

正平二〇年(一三六五)頃、楠木正儀が父正成の三十三年忌に際して建立したといわれ、開山は妙心寺第二世授翁宗弼と伝える(河内九個荘村郷土誌)。ちなみに、これ以前の暦応五年(一三四二)妙心寺再興に際し、当地一帯を含む上仁和寺かみにわじ庄の地頭職が同寺菩提料所として寄進されている(康永元年一一月一二日「花園上皇御処分状」妙心寺文書)。貞治六年(一三六七)足利義詮の死後、幼少の義満を助ける細川頼之は妙心寺檀越として授翁を通して南北朝合一の議を進めた。康暦元年(一三七九)頼之の辞任、翌二年授翁の死によって合一工作は破れたが、このとき観音寺も工作の拠点の一つとなっていたといわれる(寝屋川市誌)


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]安佐北区可部町下町屋

土居屋敷どいやしき跡の根谷ねのたに川対岸、雲石路沿いの山麓にある。三入みいり庄の地頭熊谷氏の菩提寺で、高さ一丈・長さ六〇間に及ぶ石垣がその遺構。境内の大部分は畠地になっている。観音堂一宇が残っており、内部には如意輪観音像と熊谷氏の定紋を刻んだ室町時代の須弥壇がある。この堂の裏(西)側には湧水池、南側に四十数基の五輪塔と宝篋印塔があり、熊谷氏の墓地である。県指定史跡「熊谷氏の遺跡」の一部に含まれる。

寺の創建年代は不詳であるが、熊谷氏が大林おおばやし村の伊勢いせつぼ城から高松城へ本拠を移した頃に、土居屋敷などとともに整備されたと考えられる。


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]上野市東高倉

「伊水温故」にひがし東出ひがしでにあると記す。東出の西北医王寺いおうじで、「三国地志」に観音寺は新居山医王院とある。さらに西には妙覚みようかく寺跡があり、同書は妙覚寺も山号を新居山と記す。土地の上山家の伝承によれば、同家の寺はもと妙覚寺であったが観音寺に移り、観音寺過去帳の頭初は上山盛次であったといい、上山家系図に室町頃の上山成高は新居庄植山うえやま寺に隠居とある。


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]熊本市北千反畑町

鋤身崎すきのみざき町南端の勢溜の構門の北千反畑きたせんだんばた側にあった真言宗寺院。山伏正蔵院が住居したので、通称正蔵しようぞう院と呼称し、江戸時代の絵図も正蔵院と記している。「国誌」によると、「正蔵院ハ(中略)十人扶持賜之、此観音堂ハ綱利君御建立、往年豊前仲津ニ於テ感得ノ観音ヲ安置セラル、故ニ呼野山観音寺ト号ス」と記し、三代藩主細川綱利の帰依により建立された。


観音寺跡
かんのんじあと

[現在地名]笠利町里

曹洞宗。大島観音寺・赤木名はつきな観音寺とも俗称された。宝陀山と号し、本尊は聖観音。近世は鹿児島福昌寺末で、かつては大熊でつくま(現名瀬市)にあったという(大島私考)。延宝三年(一六七五)の開創とされる。享和元年(一八〇一)大島代官所が伊津部いちぶ(現同上)に移転して当寺も移るべきところ一九年目の文政二年(一八一九)にようやく移建した(大島代官記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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