…相沢は1931年青森の歩兵第5連隊大隊長就任後,十月事件が計画されるころより,同連隊付の大岸頼好中尉を通じて皇道派の青年将校と接触を深め,その思想に傾倒していった。34年3月永田が軍務局長に就任するや,荒木貞夫陸相の後を受けた林銑十郎陸相の下で軍中央部からの皇道派追放の圧力が強まり,士官学校事件をめぐり青年将校運動のリーダー村中孝次,磯部浅一が停職処分(のち免職)をうけると,直情的な相沢の憤激はきわまった。さらに35年7月青年将校の信望を集めていた真崎甚三郎教育総監が罷免されると,相沢はその元凶と目された永田に対する凶行に出た。…
…陸軍士官学校卒業(38期)。1934年の士官学校事件に関連して村中孝次とともに停職になった。停職中に村中と〈粛軍に関する意見書〉を作って統制派を攻撃したため,35年陸軍一等主計で免官となる。…
…十一月事件とも呼ばれる。同年8月陸軍士官学校の生徒隊中隊長に就任した辻政信大尉は,腹心の士官候補生を使って,士官候補生に影響を及ぼしていた皇道派青年将校村中孝次大尉(陸軍大学校在学中)から,皇道派が11月27日召集の第66臨時議会の前後にクーデタを計画しているという情報を探りださせた。辻はこの情報を憲兵司令部および先輩の片倉衷少佐に注進し,11月20日村中や磯部浅一一等主計らが緊急逮捕された。…
…軍内部の粛正を指すが,日本の近代史においては,二・二六事件前後の時期に陸軍内部の派閥争いをめぐって問題となった。最初に粛軍を唱えたのは,1935年7月,村中孝次,磯部浅一が発表した〈粛軍に関する意見書〉であり,それは士官学校事件をでっちあげて青年将校運動を弾圧した責任を追及するとともに,1931年の三月事件,十月事件が陰ぺいされていることに軍不統制の原因があるとして,関係者の粛正を求めたものであった。しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。…
※「村中孝次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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