統制派(読み)トウセイハ

デジタル大辞泉 「統制派」の意味・読み・例文・類語

とうせい‐は【統制派】

昭和初期、陸軍内で皇道派に対立した派閥永田鉄山東条英機らが中心で、直接行動を唱える青年将校の運動を封じ、一元的統制の下での国家改造を目ざした。二・二六事件以後、軍部の指導権を握った。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「統制派」の意味・読み・例文・類語

とうせい‐は【統制派】

  1. 昭和初期に皇道派を抑え、主導権を握った陸軍部内の派閥。永田鉄山、東条英機らが中心。政財界と結んで合法的手段による覇権確立をめざし、直接行動を主張する皇道派と対立した。軍部内の統制を重視し、二・二六事件を契機に皇道派を一掃、その後の軍部独裁を推進した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「統制派」の意味・わかりやすい解説

統制派 (とうせいは)

昭和期,陸軍内の皇道派に反対する派閥。皇道派に比べて派閥としての実態は明確でなく,皇道派による派閥人事や,その観念性,および皇道派に連なる急進的な隊付青年将校の行動を統制をみだすものとして反発する反皇道派の中央幕僚層の総称とみなすべきであろう。永田鉄山,東条英機,片倉衷らがその中心と目される。1933年11月,池田純久らの幕僚将校が,急進青年将校の横断的運動をやめさせようと,そのリーダーたちと会見し,ものわかれに終わったのが反皇道派グループ登場の契機とみられる。さらに皇道派の中心荒木貞夫陸相が,しだいに陸軍内の信望を失墜し,34年1月退陣。同年3月,軍務局長に就任した永田鉄山が中心となり,荒木,真崎甚三郎とならび〈皇道派三将軍〉の一人として皇道派の期待をもになっていた林銑十郎陸相を動かし,次々に皇道派系軍人を左遷。34年11月の士官学校事件を契機に両派の緊張は高まり,35年7月の真崎教育総監更迭,それを因とする永田軍務局長斬殺事件(相沢事件),さらに翌年の二・二六事件へと至り,そして以後の〈粛軍〉によって,いわゆる統制派が陸軍をおさえることになる。統制派という名称は,陸軍内の統制をはかったからとか,統制経済をめざしていたからとかいわれるが,皇道派の観念性に比してより現実的であり,ファッショ化への具体的プログラムをもっていたグループとみなすことができよう。ただし他の政治勢力に対して,陸軍の利益を守ろうとする点においては,両派に対立は認めにくい。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「統制派」の意味・わかりやすい解説

統制派【とうせいは】

日本陸軍内の派閥。中心は旧桜会系統の参謀本部陸軍省の中堅将校。クーデタによる国家改造を否定し合法的権力樹立のために政財界に接近皇道派の派閥人事,クーデタ計画に強く反発。1934年陸相が皇道派の荒木貞夫から林銑十郎に交替後急速に優勢化,軍務局長永田鉄山を中心に皇道派を弾圧二・二六事件で皇道派を一掃し軍の実権を握り,東条英機内閣政権も掌握した。
→関連項目相沢事件粛軍東条英機

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「統制派」の意味・わかりやすい解説

統制派
とうせいは

昭和初期の陸軍内部の派閥の一つ。陸軍省,参謀本部の幕僚を中心にした一つの傾向をさし皇道派と対立し,軍の統制をはかったことからこの名がある。永田鉄山らが中心となり,皇道派青年将校に批判的で,軍中央部による軍の統制を重視し,合法的手段によって軍を主導力とした国家総動員体制を構築しようとした。永田は 1931年の十月事件の頃から武藤章東条英機らを集めて政策の研究を行い,34年3月皇道派の陸相荒木貞夫の病気退陣後,みずから軍務局長の要職について軍部の実権をほぼ掌握し,同年 10月いわゆる陸軍パンフレットを発表して挙国一致を唱えた。 35年8月永田は皇道派の相沢三郎中佐に暗殺されたが,その後同派は二・二六事件を口実に皇道派を退け,東条英機を前面に立てて太平洋戦争へと突入していった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「統制派」の解説

統制派
とうせいは

昭和前期の陸軍の派閥の一つ。一夕(いっせき)会系の陸大卒のエリート軍人が形成。永田鉄山・東条英機・武藤章・池田純久(すみひさ)ら10人が中心で,大半が外国駐在の経験者。次におこる戦争は軍事・経済・科学・全国民を陸軍主導の下に一元的に統制する国家総力戦であるとし,そうした国家体制実現は,陸相が内閣の政策を動かし,同時に新官僚や財界とも提携して合法的に達成するとした。この達成には皇道派の青年将校の非合法運動は軍の統制を乱す障害であるとして,皇道派と対立した。1934年(昭和9)10月陸軍省新聞班発行の「国防の本義と其強化の提唱」は統制派の思想・方策の宣言書。35年8月の相沢事件で打撃をうけたが,翌36年の2・26事件後の粛軍人事で皇道派を一掃した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「統制派」の解説

統制派
とうせいは

昭和前期,皇道派を抑え主導権を握った陸軍部内の一派閥
1931年十月事件失敗後,革新派のうち中央官庁勤務の中堅将校を中心に形成。政・財界と結び合法的手段による覇権確立をめざし,直接行動を主張する皇道派と対立した。軍部内の統制を唱え,二・二六事件('36)を機に皇道派を一掃し,軍部の実権を握って軍部独裁を推進した。中心人物に永田鉄山・東条英機・板垣征四郎らがいる。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「統制派」の意味・わかりやすい解説

統制派
とうせいは

皇道派・統制派

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の統制派の言及

【右翼】より

…観念右翼には国本社建国会,血盟団,神兵隊,大日本生産党,大東塾など,革新右翼には経倫学盟,日本国家社会党,新日本国民同盟,日本革新党など,中間派には東方会,大日本青年党,国粋大衆党などがあったが,中間派は思想上の立場からいえば革新右翼に分類することも可能である。これらの右翼団体の多くは軍部内のファッショ的革新派や革新官僚と結びついていたが,観念右翼は皇道派に,革新右翼と中間派の多くは統制派に親近感をいだいていた。テロをともなう彼らの運動は,満州事変前後から活発化したが,多くは大衆的基盤が弱く,理論性に乏しく,非合法活動に走った場合には弾圧されるなど,全体としては政治のファッショ化を促進する役割を果たしたにとどまった。…

【軍閥】より

…(1)軍隊の上層部が軍事力を背景に政治的特権を握った場合,(2)出身地,地位,政策などによってつくられた軍隊内のグループが,政治的行動を行う場合,(3)地方に割拠した軍事集団が,独立の地方勢力となった場合など,それらの集団・グループを指す用語として使われている。プロイセンや第2次大戦前の日本のように,軍隊が優越した政治的地位を占めている場合にその上層部を軍閥というのは(1)の場合であり,明治以後の陸軍における長州閥,海軍における薩摩閥や,昭和期の陸軍における皇道派,統制派,海軍における条約派,艦隊派などを軍閥というのは(2)の場合であり,辛亥革命後の中国における各地の半独立勢力や,西南戦争直前の薩摩の私学校党などは(3)の場合である。また(1)の範疇に属するが,南アメリカ諸国などでときおりみられるように,他国の支援をうけた軍人の一派が政治的実権を握るような場合もある。…

【二・二六事件】より

…1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し,さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。…

※「統制派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android