軍内部の粛正を指すが,日本の近代史においては,二・二六事件前後の時期に陸軍内部の派閥争いをめぐって問題となった。最初に粛軍を唱えたのは,1935年7月,村中孝次,磯部浅一が発表した〈粛軍に関する意見書〉であり,それは士官学校事件をでっちあげて青年将校運動を弾圧した責任を追及するとともに,1931年の三月事件,十月事件が陰ぺいされていることに軍不統制の原因があるとして,関係者の粛正を求めたものであった。しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。陸軍中央部は事件鎮圧とともに特設軍法会議を設け,反乱軍指導者をはじめ民間の北一輝らをも死刑を主とする厳罰に処したが,この間,36年3,4月には,事件当時の軍事参議官林銑十郎,真崎甚三郎,荒木貞夫,阿部信行の4大将をはじめ,現役の大将10名中7名を予備役に編入するなど,8月の定期異動をも含めて3000名をこえる空前の将校人事異動を行い,事件の責任を明らかにするとともに,皇道派勢力の一掃をはかった。また寺内寿一陸相は,4月8日の師団長会議で,軍人個々の政治行動は軍人の本分にもとるとし,軍の政治行動は陸軍大臣を通じてのみ行うべきものと訓示して軍内統制の方向を示し,政府も5月の第69議会で不穏文書取締法を成立させて,いわゆる怪文書取締りを強化して軍内秩序を側面から支援する姿勢を示した。しかし陸軍当局は,こうした内部の粛正と同時に,外部に対しても粛軍に見合った統制主義的国政改革を要求するようになり,広田弘毅内閣の組閣過程にも,自由主義的・現状維持的色彩の排除を求めて介入した。また5月18日の官制改正による陸海軍大臣現役武官制の復活も,直接には粛軍で現役をしりぞいた皇道派将官が陸軍大臣となる道をふさぐことをめざしたにしても,次の宇垣一成内閣を流産させる武器となったように,軍の政治的地位を強めるという結果をもたらすものであった。陸軍は結局,粛軍を利用して,みずからの政治的発言力を画期的に強めたといえる。
執筆者:古屋 哲夫
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二・二六事件後の陸軍粛正問題。1936年(昭和11)の二・二六事件は宮中や政界、財界に大きな衝撃を与え、国民の間にも反軍的空気が広がった。これに対し寺内寿一(てらうちひさいち)陸相を中心とする陸軍首脳部は再三にわたって粛軍を言明、反乱軍将校の厳罰、真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)、荒木貞夫(あらきさだお)、川島義之(かわしまよしゆき)ら7大将の予備役編入、大規模な人事異動などの措置をとり、その鎮静化に努めた。しかし、その実際に意味するところは、皇道派の一掃と直接行動の禁圧とによる新首脳部の統制強化、人事構成の若返りにほかならず、むしろ陸軍は粛軍と政治の改革とは不可分の関係にあるとしたうえで、政治への介入を一段と強化してゆくこととなった。
[吉田 裕]
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1936年(昭和11)3月から翌年9月にかけて,陸軍によってなされた2・26事件後の処置。陸軍は青年将校や事件当時の陸軍上層部を処罰し,隊付将校や在郷軍人会への統制を強化する法の整備,人事権を大臣に集中するための法改正も行った。しかしこれが統制派による皇道派一掃の色合いを帯びてくると,近衛首相はこれを警戒し,反乱幇助(ほうじょ)の罪で起訴されていた真崎甚三郎を無罪にすることでバランスをとろうとした。
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