村瀬直養(読み)ムラセ ナオカイ

20世紀日本人名事典 「村瀬直養」の解説

村瀬 直養
ムラセ ナオカイ

大正・昭和期の官僚,政治家,弁護士 法制局長官;貴院議員(勅選);商工組合中央金庫理事長。



生年
明治24(1891)年10月12日

没年
昭和43(1968)年8月8日

出生地
栃木県宇都宮

学歴〔年〕
東京帝大法科大学独法科〔大正3年〕卒

経歴
大正3年農商務省入省。法制局書記官、昭和8年商工省商務局長、11年特許局長官、商工次官を歴任し、14年退官。15年第2次近衛文麿内閣法制局長官となり、第3次近衛内閣にも留任。16〜21年勅選貴院議員。20年再び鈴木貫太郎内閣の法制局長官となり、敗戦後の東久邇捻彦内閣でも留任。21年弁護士登録。22年公職追放、解除後の28〜33年商工中金理事長を務めた。36年日本電子計算機社長。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「村瀬直養」の解説

村瀬 直養
ムラセ ナオカイ


肩書
法制局長官,貴院議員(勅選),商工組合中央金庫理事長

生年月日
明治24年10月12日

出生地
栃木県宇都宮

学歴
東京帝大法科大学独法科〔大正3年〕卒

経歴
大正3年農商務省入省。法制局書記官、昭和8年商工省商務局長、11年特許局長官、商工次官を歴任し、14年退官。15年第2次近衛文麿内閣法制局長官となり、第3次近衛内閣にも留任。16〜21年勅選貴院議員。20年再び鈴木貫太郎内閣の法制局長官となり、敗戦後の東久邇捻彦内閣でも留任。21年弁護士登録。22年公職追放、解除後の28〜33年商工中金理事長を務めた。36年日本電子計算機社長。

没年月日
昭和43年8月8日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村瀬直養」の解説

村瀬直養 むらせ-なおかい

1890-1968 大正-昭和時代の官僚。
明治23年10月12日生まれ。農商務省にはいり,特許局長官,商工次官などを歴任。昭和15-16年第2・第3次近衛内閣,20年鈴木貫太郎内閣・東久邇(ひがしくに)内閣で法制局長官をつとめた。貴族院議員。28年商工中金理事長。昭和43年8月8日死去。77歳。栃木県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「村瀬直養」の解説

村瀬 直養 (むらせ なおかい)

生年月日:1890年10月12日
大正時代;昭和時代の官僚
1968年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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