昭和の元号を冠した時代(1926-89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
1926年12月25日大正天皇が死去し,すでに1921年以来摂政であった皇太子裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)して昭和と改元された。天皇の交代はそれだけでは時代を画する意味をもつものではないが,この1926年から27年にかけての時期は,時代が大きな転換期にさしかかっていると思わせるような激動がおこっていた。
第1次世界大戦で活況を呈した経済界は,1920年に激しい戦後恐慌におそわれ,さらに23年には関東大震災の打撃による震災恐慌に見舞われて,それから容易に立ち直ることができず,長びく不況,貿易の赤字,失業の増加など,さまざまな困難をかかえていた。このなかで労働争議,小作争議が続発し,激しい階級対立のなかで,社会運動が高揚期を迎えていたのである。またこの時期,日本をとりまく国際情勢もきびしさを加えていた。第1次大戦中に,列強の不在に乗じて日本が中国にたいする帝国主義的侵略の歩を進めたことから,アメリカ,イギリスとの矛盾が激化し,アメリカ,イギリスの庇護のもとに成長した日本が,今や両国と対立する形勢となっていた。さらに長期にわたるロシア革命への軍事干渉としてのシベリア出兵も,日本が国際社会において孤立する結果を招いた。また中国における国民革命の進展によって,中国の反帝国主義民族運動の矢面に日本が立つことになり,満蒙の権益にも不安が生じていた。こうして昭和改元の前後には,内外の矛盾が深まり,日本帝国主義そのものの危機が生じていたのである。
こうした内外の危機の深まるうちに開幕した昭和時代戦前期は,危機の克服策を,国内では民衆の弾圧に,国外では侵略戦争に求めるというファシズムと戦争の道を選んだのであった。1927年3月,若槻礼次郎憲政会内閣のもとで激しい金融恐慌がおこった。中小銀行の倒産がつづくなかで,植民地経営の中枢金融機関であった台湾銀行が破綻に瀕した。若槻内閣は恐慌対策として台湾銀行救済のための緊急勅令を出そうとしたが,枢密院はこの緊急勅令案を否決し,内閣を総辞職に追い込んだ。枢密院の反対の目的は倒閣にあったが,とりわけ若槻内閣の対中国政策,幣原喜重郎外相の外交,とくに対中国政策が軟弱だというのが,政府攻撃の主要な理由であった。
若槻内閣に代わった政友会の田中義一内閣は,金融恐慌を収拾するとともに,内閣交代の真の目的である対中国政策の転換をはかった。5月には北伐阻止のため陸軍を中国山東省に派遣し(第1次山東出兵),6月末からは東方会議を開き,対中国強硬政策を盛り込んだ〈対支政策綱領〉を発表し,翌28年4月にはふたたび山東省に出兵した(第2次山東出兵)。一方,国民政府軍の北伐によってその地位を脅かされた華北の支配者張作霖は根拠地の奉天(現在の瀋陽)に引き揚げる途中,6月4日奉天郊外でその列車を爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件)。この列車爆破は,これをきっかけに満州の武力占領をはかろうとした関東軍の参謀河本大作大佐らの陰謀であった。しかしこうした一連の対中国政策は,列強の非難と,中国の民族運動の激しい抵抗を呼び起こし,国内からも田中外交の失敗だとする批判が強まった。
対外強硬政策をとった田中内閣は,国内でも強権政治を行った。1928年3月15日,共産党にたいし全国一斉検挙を行って1600人を逮捕し,そのうち488人を起訴した(三・一五事件)。さらに6月には,議会閉会中にもかかわらず緊急勅令で治安維持法を改正し,国体変革の最高刑を死刑に引き上げ,7月には特高警察を拡充して全国に特高の網をはりめぐらせた。こうした内外の強硬政策にたいし国民の不満が高まるなかで,張作霖爆殺事件の処理について天皇の信任を失った田中内閣は総辞職した。このときの国際情勢のなかでは,まだ日本が単独で侵略戦争を開始する条件はなかったのである。
1929年7月民政党の浜口雄幸内閣が成立し,外相にはふたたび幣原喜重郎が就任して,田中積極外交を修正して国際協調につとめた。国内では慢性的な恐慌を克服して経済の合理化をはかるために,緊縮財政をすすめて,金輸出禁止を解除しようとした。金解禁は30年1月に実施されたが,すでに29年10月から深刻な世界大恐慌がはじまっていた。このため浜口内閣の緊縮政策によってはじまっていた物価の下落に拍車がかかり,30年,31年と昭和恐慌は深刻になっていった。工業生産高が落ち込み,中小企業の倒産が続出し,大企業でも賃下げ,首切りが相ついで,失業者数は増えつづけた。農村の恐慌はもっとも深刻で,農家の借金は増えつづけ,娘の身売りや欠食児童が大きな社会問題になった。こうした惨状のなかで,都市では労働争議,農村では小作争議が激増し,社会不安が増大した。世界恐慌は,日本においても空前の規模の恐慌となって猛威をふるったのである。
こうして恐慌が深刻化しつつあるなかで,浜口内閣は緊縮と合理化の政策をつづけ,官吏,軍人の減俸を断行し,予算の緊縮につとめ,企業カルテルの結成を推進したため,不景気はいっそう深化し,そのなかで独占が進行した。対外政策ではロンドン軍縮条約に調印し,中国にたいしても宥和的な態度をとった。こうした浜口内閣の内外の政策,とくに対外政策にたいして,右翼や軍部の不満は高まり,1930年11月右翼の青年が浜口首相を狙撃し重傷を負わせた。また陸軍の中堅や若手の将校の中には,国家の改造による内外政策の転換を主張する運動がおこり,30年秋には桜会が結成され,31年には未遂に終わったクーデタである三月事件,十月事件が企てられた。
1931年4月,浜口首相の容態が悪化したため,若槻礼次郎が民政党内閣をひきつぎ,第2次若槻内閣が成立した。内には財政整理と陸軍軍縮をめざし,外には協調外交をつづける内閣にたいし,満蒙の危機を叫び,陸軍軍備の拡張をめざす陸軍の不満は高まり,満州の武力占領をめざす陰謀が企てられた。そして9月18日関東軍は満州事変をおこし,15年間の侵略戦争の口火を切った。この関東軍の行動を陸軍の中央は追認し,若槻内閣もこれにひきずられ,不拡大を声明しながら関東軍の行動を阻止しなかった。財界も軍の行動を支持し,恐慌からの脱出を軍事行動に期待したのである。
満州事変がはじまると,恐慌のため沈滞していた国内の空気は一変した。新聞は戦争熱をあおる記事をかかげ,軍国主義,排外主義がひろがった。1931年12月民政党の内部対立から若槻内閣が倒れ,政友会の犬養毅内閣が成立した。犬養内閣は組閣当日に金輸出を禁止し,インフレーション政策に転換した。対外政策でも積極政策に転じ,32年2月には上海に陸軍を出動させ(第1次上海事変),3月には関東軍が占領地に傀儡国家〈満州国〉をつくることを容認した。この間に,農村の救済を叫び,より積極的な内外政策を要求する右翼や青年将校の運動が盛んとなった。2月から3月にかけ,政財界要人の暗殺を実行した血盟団事件,5月15日には犬養首相を暗殺した五・一五事件がおこった。そして五・一五事件によって犬養内閣が倒れたことによって,政党政治に終止符が打たれたのであった。
五・一五事件のあと,海軍大将斎藤実の官僚,軍部,政党の寄合い内閣ができ,さらに1934年7月からは,海軍大将岡田啓介の内閣がつづくが,政党は二,三の閣僚ポストを与えられただけで政権から遠ざかり,軍部の政治的発言権は増大していった。この間に国際連盟の日本軍満州撤退勧告に反対して,33年3月日本は国際連盟を脱退し,第1次大戦後の国際秩序に挑戦して孤立化の道を歩んだ。大陸での軍事行動は,33年5月の塘沽(タンクー)停戦協定でいったん終止符を打ったが,陸海軍はいずれも軍備拡張を競い,次の戦争への準備に熱中した。このため陸海軍事費は増大し,それを公債発行で賄わなければならず,農村救済をはじめとする内政費を圧迫し,財政の危機が深刻になっていった。この間,一方では準戦体制のもとに学問や思想への統制がきびしさを加え,33年の滝川事件,35年の天皇機関説問題にあらわれたように,弾圧は共産主義から自由主義,民主主義にまで及んだ。
1936年2月26日,皇道派青年将校が,在東京の陸軍部隊1400名余を率いて蜂起し,内大臣斎藤実,蔵相高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害し,永田町一帯を占拠して,国家改造を要求する事件がおこった。この二・二六事件の影響は深刻であった。事件後に成立した広田弘毅内閣は,陸軍の要求をいれ,〈庶政一新,広義国防〉を政策とし,陸海軍備の大拡張をスタートさせた。そして36年8月には〈帝国外交方針〉〈国策の基準〉を決定し,大陸と南方への進出を国策として画定した。11月にはナチス・ドイツとの間に,日独防共協定を結び,着々と戦争体制をととのえた。この軍備拡張の財源は,増税と公債増発によるものであったから,国民生活を圧迫するとともに,財政危機をいっそう深刻にした。そして国民の不満を背景に,政党と陸軍との対立が深まり,37年1月の議会における浜田国松の軍部批判演説(反軍演説問題),その結果としての広田内閣の崩壊,陸軍の反対による宇垣一成の組閣の流産,後継の林銑十郎内閣の政党との対立,衆議院の懲罰解散,4月の総選挙による政府与党の惨敗とめまぐるしく政局が動き,支配層内部の亀裂が深刻になっていった。
1937年6月,支配層の統一の切札として登場した近衛文麿内閣は,軍部の支持をうけ,政友会,民政党からの入閣も実現し,国民の人気も集まった。しかしこの内閣は,日本を戦争へ導く役割を演ずることとなった。近衛内閣成立1ヵ月後の37年7月7日におこった蘆溝橋事件が,日中間の全面戦争の発火点となったのである。事件は現地の軍当局間で7月11日に停戦協定が成立し,局地解決の兆しがみえたが,同じ11日に近衛内閣は重大決意で派兵すると声明し,国内各界に挙国一致を要請して戦争の気構えをみせた。7月28日増援部隊が到着した華北の日本軍は総攻撃を開始して北京,天津を占領し,8月には戦火が上海に広がり,8月15日政府は中国を〈断固膺懲(ようちよう)〉すると声明して全面戦争を開始した(日中戦争)。
初めは日本政府も軍部も,中国との長期大規模な戦争を予想したわけではなかった。中国の抗戦意志を軽視し,一撃で屈服させることができるとしていたのである。しかし中国では抗日民族統一戦線が成立し,あくまで抗戦をつづける体制がつくられていた。上海での日本軍の苦戦がつづいたため,1937年11月さらに別の一軍を杭州湾に上陸させ,12月に首都南京を占領した。ここで起こした日本軍の大虐殺事件は,かえって中国国民の抗日の決意をかためさせることになった(南京大虐殺)。38年4月から5月にかけて,徐州作戦,8月から10月にかけて武漢攻略作戦,10月には広東攻略作戦が行われ,戦争は拡大の一途をたどったのである。
武漢,広東攻略戦が,日本軍の進攻作戦能力の限界であった。1939年以後は,日本軍は中国の占領地域の確保だけに追われて,戦争は長期持久戦の段階に入った。予期しない泥沼の長期戦は,日本の国内経済にとって耐えがたい負担となった。38年4月近衛内閣は国家総動員法を公布し,資源,資金,労働力のすべてを戦争に動員する体制をつくりあげ,民需生産を抑えて軍需生産に集中して,戦争遂行と次の戦争準備に全力をあげた。このため国民生活は極度に圧迫され,衣料,日用雑貨にはじまり,39年には食糧危機が深刻化した。食糧の供出,配給制をはじめ,主要物資は配給制となり,物の不足,闇の横行が国民を悩ませた。〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません,勝つまでは〉という標語で国民は耐乏生活を強制され,すべてを犠牲にして戦争協力を強いられたのである。
日中戦争の軍事的解決のめどがなくなり,戦争経済の困難も加わって,日本が内外ともに行き詰まっているとき,ヨーロッパに新しい情勢が展開した。1939年9月,第2次世界大戦がはじまったのである。40年4月ノルウェー,デンマークを急襲占領したドイツは,5月10日西部戦線で総攻撃を開始し,オランダ,ベルギー,ルクセンブルクを占領し,6月22日にフランスを降伏させた。
このドイツの電撃戦の勝利は,日本の支配層を震撼(しんかん)させた。ドイツに便乗し,イギリス,フランス,オランダの東南アジアの植民地を手に入れて,内外の行詰りを打開しようという南進論が沸騰した。一方,ドイツのような強力な国内体制の一元化をはかるべきだとする新体制運動も盛り上がった。1939年1月に戦争に行き詰まった第1次近衛内閣が総辞職したあとに平沼騏一郎内閣ができ,同年8月から阿部信行内閣,40年1月から米内光政内閣と,短命の内閣が交代していたが,こうした動きのなかでふたたび40年7月に第2次近衛内閣が出現した。
第2次近衛内閣は成立早々に南進政策を国策として決め,1940年9月に敗戦国のフランスを脅迫して北部仏印への日本軍進駐を認めさせ,日独伊三国同盟を結んで,世界再分割にのりだす枢軸国の連携をかためた。一方国内では,すべての政治団体を解消させ,10月に大政翼賛会を成立させた。こうして戦争とファシズムに突き進むのである。
日本の南進は日米間の対立を激化させた。日米国交調整のため1941年4月からワシントンで開かれた交渉は,満州事変以後の日本の侵略を認めないアメリカと,中国からの撤兵を肯(がえ)んじない日本との間に,妥協の余地はなかった。41年6月22日,独ソ戦がはじまると,日本は7月2日の御前会議で対ソ戦準備と武力南進の双方を準備することを決めた。さらに対米戦の決定をめぐる対立から近衛内閣が総辞職すると,10月東条英機内閣が出現し,11月5日の御前会議で12月初旬の開戦を準備することを決めた。こうして対米英戦に向かって突き進み,12月8日宣戦に先立つ奇襲で,マレー半島への上陸とハワイ真珠湾空襲を行って,太平洋戦争に突入したのである。
中国との戦争に行き詰まっているうえに,さらにアメリカ,イギリスにたいして開戦した太平洋戦争は,勝利の目算のたたない無謀な戦争であった。連合国側の準備不足に乗じた緒戦こそは有利に進展して,開戦後半年でビルマ(現ミャンマー),マレー,インドネシア,フィリピンなどを占領したが,生産力に圧倒的な差のあるアメリカの反攻に敵するはずはなかった。1942年6月のミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い,8月に南太平洋のガダルカナル島への米軍上陸を許してからは,戦局は一挙に逆転し,太平洋戦線は後退をつづける一方であった。国内の戦争経済も,資源の枯渇,資金,労働力の不足,民需の圧迫による基礎生産の不振などから行き詰まり,さらに米潜水艦の活動で南方との交通が途絶して崩壊の一途をたどった。国民生活のすべてを犠牲にして努力を集中した軍需生産も頭打ちとなり,戦争への総動員を開始したアメリカとの軍需生産力の差は広がる一方となった。制空権,制海権を失った戦線は後退をつづけ,43年2月にはガダルカナル島から撤退し,同5月には米軍の上陸によってアッツ島の守備隊が玉砕し,43年11月にはマキン,タラワ島,44年2月にはクワジャリン,ルオット島が玉砕した。そして44年6,7月には,太平洋最後の防衛線とたのんだサイパン,グアム島が玉砕し,連合艦隊はマリアナ沖海戦で航空兵力の大半を失った。マリアナ敗北を機に東条内閣は総辞職し,44年7月小磯国昭内閣が成立して戦争完遂を叫んだが,戦局の帰趨はすでに明らかであった。
1944年10月米軍はフィリピンのレイテ島に上陸,日本軍が計画した最後の決戦にも敗北し,45年1月にはルソン島,2月には硫黄島,4月には沖縄本島に米軍が上陸し,守備軍は多くの県民を犠牲にして全滅した。戦争完遂を叫びつづけた小磯内閣は45年4月鈴木貫太郎内閣に交代したが,この内閣も,本土決戦を叫びつづけ,6月には全国民を国民義勇隊に編成して,本土で〈一億玉砕〉の戦いを展開する態勢づくりにつとめていたのである。
1945年5月8日,ドイツは無条件降伏した。7月17日米英ソ3国首脳は,ベルリン郊外のポツダムで会談し,7月26日に日本にたいする最後の降伏勧告としてポツダム宣言を発表した。しかし鈴木内閣はこれを黙殺し,戦争遂行の姿勢を変えず,一方ではソ連を仲介とする有利な講和交渉を探っていた。日本のポツダム宣言無視を理由に,アメリカは完成したばかりの原子爆弾を広島に投下し,8月8日ソ連が参戦した。ここに及んで初めて日本の最高戦争指導会議と閣議は降伏について討議し,8月9日天皇の裁断により,国体の維持を条件にポツダム宣言を受諾することを決めた。そして連合国の回答をめぐってふたたび天皇の裁断により,8月14日無条件受諾を決定し,8月15日天皇の放送で国民にこれを知らせた。310万の人命の損失と,主要都市の灰燼(かいじん)化,その他莫大な国民の犠牲をもたらした戦争は,ようやく終わったのである。
戦前の昭和の歴史は,国内の民衆運動を抑圧し,恐慌の危機を切り抜け,周辺諸国の民族運動を圧殺するために,国内体制のファッショ化をすすめ,大陸への侵略戦争を拡大した歴史であった。そして日本歴史はじまって以来の大規模な戦争をたたかい,莫大な戦禍をもたらし,完全な敗北をもって終わったのである。
大正後半期とくに関東大震災以後から昭和初期にかけては,社会や文化の面に大きな変動がおこった時期であった。まずこの時期には大衆への伝達手段,マス・コミュニケーションが急速に発達した。1925年に初めて芝愛宕山の東京放送局から放送を開始したラジオは,急速に普及し,35年には聴取契約者が100万を突破した。その後も新しい娯楽の提供の面でも,ニュースの報道の面でも伸長をつづけ,戦争の拡大とともに全戸に普及するまでになった。新聞も関東大震災による打撃,輪転機の実用化などから,大新聞の独占がすすみ,《朝日》《東京日日》《大阪毎日》《読売》の大新聞は発行部数100万を超えたが,戦争とともにいっそう大新聞の部数が伸びた。そして新聞はニュース,娯楽の両面ともに大衆化し,連載小説やスポーツ,ラジオ欄などにスペースを割いて大衆的需要にこたえるようになった。出版も大量化し,昭和初期には1冊1円の廉価の文学全集を皮切りに円本ブームがおこり,一方では小型の文庫本がひろがるなど,出版部数が飛躍的に増大した。そして《キング》《少年俱楽部》《主婦の友》などの大衆的な雑誌が月刊で100万部を超えるようになった。こうした大衆化現象を反映して,純文学にたいする大衆文学という娯楽本位の小説の形態が普及したことも特徴であった。1926年には《朝日新聞》に大仏次郎の《照る日くもる日》,《毎日新聞》に吉川英治の《鳴門秘帖》が競争で連載されて,大衆文学の全盛時代を迎えた。また文化の大衆化に大きな役割を果たしたのは映画であった。大正末期から日本映画の製作の増加,内容の向上がはじまり,全国に上映館がひろがった。31年からトーキー化がはじまり,1930年代後半には全盛時代に入った。
昭和恐慌のもとで,労働争議や小作争議が頻発し,失業がひろがり,社会不安が深刻になると,文化の面でもマルクス主義の影響をうけたプロレタリア文化運動が盛んになった。プロレタリア文学,左翼演劇,傾向映画の全盛時代を迎えたのである。しかし満州事変後きびしい弾圧でプロレタリア文化運動が下火になると,戦争とファシズムへの不安から逃れようとして世相は頽廃の度を加えた。エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる傾向が広がり,刹那(せつな)的な娯楽を求めて都市ではカフェーやダンスホールが盛況をきわめ,《紅屋の娘》《酋長の娘》《祇園小唄》などの流行歌が歌われた。
しかし,こうした現実からの逃避が許されたのはつかのまだけであった。戦争の拡大とともに国民への統制と動員の体制はきびしさを加え,いっさいの文化や娯楽も厳格な統制のもとにおかれるようになった。1940年,第2次近衛内閣のもとで,あらゆる自主的組織が解散して大政翼賛会,産業報国会などの翼賛団体に編成された。国民は隣組,五人組などの隣保班に編入され,それがさらに町内会,部落会に編成されて,市町村のもとでの大政翼賛会の指導組織とされた。職場でも産業報国会,農業報国連盟などの組織に編入された。こうしてすべての国民は,居住地でも職場でも,網の目のような組織の中に組み入れられ,いっさいの自由を失って,戦争に動員されたのである。
また昭和戦前期は,大量伝達手段の発達,組織化の進展などによって,風俗や慣習の面でも画一化が進行した時代であった。日常の服装が着物から洋服に変わり,戦時中は国民服,もんぺに統一された。食事も簡単な洋食が普及した。女性の職場への進出もはじまり,とくに戦時中の労働力不足から,それまで女性に閉ざされていた職域にも大量の女性が働くようになった。このことは家族関係にも影響を及ぼし,家父長的家族制度から近代的な家族関係への変化がおこりつつあった。こうして,危機から戦争への時代であった昭和戦前期は,社会の大きな変動の時代ともなったのである。
戦争が政治・経済に与えた影響は深刻であった。すべてを戦争に集中した国家総動員体制は,国内経済にも国民生活にも大きな変動を及ぼした。戦争の被害も重大で,国土は荒廃し,都市は焦土と化した。そのなかで戦後を迎えた。
ポツダム宣言を受諾したことにより,日本は連合国の占領下におかれることになった。しかし,この占領の実態は実質的にはアメリカの単独占領であった。またその占領統治の形態は,日本政府の存在を認め,占領軍の命令を政府を通じて実行させる間接統治であった。この点では国家権力を連合国が継承し,4ヵ国で分割占領を行ったドイツの場合と異なっている。ポツダム宣言は,日本の軍国主義の排除と民主化を求めていたが,アメリカの初期の占領政策は,〈日本がふたたびアメリカの脅威にならないように〉日本を非軍事化することであり,民主化と非軍事化の目標がほぼ一致して,一連の占領政策にもとづく民主的諸改革が実行された。すなわち政治的・宗教的自由制限の撤廃,婦人の解放,労働組合の結成奨励,教育改革(〈学校〉の項のうち,戦後の教育改革参照),農地改革,財閥解体,憲法改正などの一連の民主化政策である。この改革によって,はじめて日本は基本的人権の尊重と,民主的諸制度をもつ非武装の議会制民主主義の国家となった。
しかし米ソの対立から,冷戦が激化する1947年ごろからアメリカの対日占領政策は転換し,アジアにおけるアメリカの同盟国として日本を再建する方策がとられるようになった。そして民主化政策を修正して日本の共産化を防ぎ,アジアにおける〈反共の防壁〉とする政策がすすめられた。50年の朝鮮戦争は,日本を再軍備し,アメリカとの軍事同盟のもとにおくという方向を決定づけた。そして51年9月,ソ連,中国,インド,ビルマなどを除いたアメリカおよびその与国との間にサンフランシスコ講和条約が,同時にアメリカとの間に日米安全保障条約が締結された。両条約は52年4月28日に発効し,占領時代も終わって,日米安保体制のもとにおかれた新しい時代がはじまった。
1952年独立を回復したときの日本経済は,戦争による破壊,戦後の混乱とインフレ,1949年以来のドッジ・ラインによる不況と合理化のあと,朝鮮戦争による特需景気を経て,ようやく戦前の水準に回復しつつあった。一方政界では,追放解除によって戦前の政治家が復活し,戦後民主改革を批判し,憲法改正と再軍備を求める動きが活発になっていた。占領後半期の逆コース時代に,沈滞していた社会運動は,再軍備反対,反戦平和の運動としてふたたび盛り上がりはじめていた。占領時代から継続していた吉田茂の自由党政権にたいし,自由党内部での鳩山一郎らの旧勢力の反発が強く,政界は動揺をつづけ,52年10月,53年4月とつづけざまに衆議院選挙が行われ,吉田政権は辛うじて継続したが,その基盤は不安定であった。54年11月自由党の反吉田派と改進党が合同して鳩山を総裁とする日本民主党を結成し,12月には占領期を象徴する吉田内閣がついに総辞職して鳩山内閣が成立した。しかし55年2月の総選挙でも民主党は過半数にはるかに達せず政権は不安定であった。政局の安定を望む財界は,保守合同を強く希望し,経済団体連合会(経団連),日本経営者団体連盟(日経連),経済同友会,日本商工会議所の財界4団体は,たびたび共同声明を発表して保守合同を働きかけ,55年11月ついに民主党と自由党が合同して,単一保守党としての自由民主党が成立した。一方51年10月,講和,安保両条約にたいする賛否をめぐって左右に分裂していた社会党は,独立後の憲法擁護,再軍備反対の運動のなかでしだいに勢力を伸ばしたため,政権獲得を期待して統一への要望が強くなり,55年10月両派が統一して日本社会党として再発足した。こうして自由民主党と社会党との2大政党の対立という,55年体制が成立した。
1950年代の後半は,自由民主党の鳩山内閣や岸信介内閣によって,憲法改正と再軍備をめざす保守的な政策がすすめられたが,これに対し憲法擁護,反戦平和の民衆運動がひろがり,選挙のたびごとに革新派の議席が増えた。60年の安保条約の改定にたいしては,空前の規模の反対運動が盛り上がった。この安保改定阻止運動は,国民の中での護憲,平和の意識がいかに強く定着しているかを示した。そして保守政党も財界もこれに真っ向から敵対することが得策ではないことを悟った。安保後に成立した池田勇人内閣は,改憲論を抑え,早急な軍備増強政策に代わって経済大国化をめざし,所得倍増,高度成長を政策にかかげた。
日本経済は,1955年ごろにはすでに戦前の水準を回復し,消費財の生産ブームから輸出船のブームにいたる好況を迎え,1950年代後半には高度経済成長がはじまっていた。池田内閣は農村から都市に労働力を吸引し,重化学工業中心の経済成長を促進する政策をとったので,60年代前半には高度成長にさらに拍車がかかった。64年佐藤栄作内閣に代わってから,65年にいったん不況を迎えるが,その後もアメリカのベトナム特需に支えられ,輸出の好調を軸にして1960年代後半も年率10%を超える高度成長がつづいた。
この経済成長に支えられ,60年代の池田,佐藤の自民党政権は長期間の安定を保つことが可能であった。しかし60年代後半になると,高度成長の諸矛盾が,都市の過密化,住宅問題,交通問題,さらに公害の多発などの形であらわれた。このため都市住民の不満が高まり,都市を中心に首長選挙における革新派の勝利がつづき,70年代初めには大都市のほとんどが革新自治体に変わった。
ベトナム戦争の莫大な負担から経済的危機を招いたアメリカが,1971年8月ドル防衛策に踏み切ったことは,ドル・ショックとして日本経済を直撃した。もっぱら対米輸出に支えられていた日本の高度経済成長が,その条件を失ったのである。さらに73年10月,第4次中東戦争にさいし,アラブ産油国が石油戦略を発動していたことも,中東石油に依存していた日本経済にオイル・ショックを与え,物価高のなかでの不況におそわれた。高度成長は終りを告げ,これ以後低成長時代を迎え,企業も省エネルギー,減量経営に向かうことになった。高度成長期,増えつづけた税収に依存して,補助金ばらまきの膨張をつづけた国家財政は,一転して歳入不足が深刻となり,75年以後毎年赤字国債を発行させ借金財政に陥ることになった。しかし2度のショック後の先進国経済が,深刻な世界同時不況に悩んでいるなかで,ともかくも日本の大企業は合理化を成し遂げて立ち直り,輸出を増やしながら一定の成長を維持しつづけた。
1972年7月佐藤内閣に代わって登場した田中角栄内閣は,列島改造を唱えていぜん膨張政策をつづけようとし,オイル・ショックを浴びて猛烈なインフレを招いた。そのため田中内閣の後半以後,三木武夫,福田赳夫内閣を通じて,総需要抑制策に転じ,世界不況のなかにありながら日本経済のある程度の成長を維持し,貿易の黒字をつづけた。そのため70年代後半以後は先進国の中での日本の経済的地位は高まった。これを背景に国民の中には現状維持的傾向がひろがり,意識のうえでの一億総中間階級化がめだつようになった。そして1960年代後半から輩出していた革新自治体は,70年代後半になると,地方財政の赤字がつづくなかで,次々と崩壊して,保守系首長にとってかわられるようになった。
アメリカの経済的低迷と日本の経済的地位の向上を背景に,ベトナム戦争が完全に終結した1975年以後,アメリカの対日軍備増強要求が激しくなった。とくに79年12月のソ連軍のアフガニスタン侵入,81年1月対ソ強硬論者のレーガンのアメリカ大統領就任以後,米ソの対立が激化し,新冷戦体制といわれる緊張状態が生まれた。このなかで日米関係は新しい段階を迎え,日本の軍事的役割にたいするアメリカの期待はいっそう増大した。
1978年12月に成立した大平正芳内閣,大平首相の急死によって80年7月にあとをついだ鈴木善幸内閣は,赤字国債の累積による財政危機を克服するため,財政再建と行政改革を方針とした。しかし,自民党の選挙基盤に関係する補助金の大幅削減に手をつけることができず,一方ではアメリカの強硬な軍備拡張要求にこたえなければならないという矛盾に直面しなければならなかった。82年11月に成立した中曾根康弘内閣は,海峡封鎖や周辺海域防衛など,軍事政策での転換をはかってアメリカの要求にこたえようとした。しかし,一方では財政赤字問題はいっそう深刻化し,行政改革はすすまず,財政再建の目途は立たないという困難に直面した。
この間に日本経済は順調な発展を続け,86年11月を底にして上昇に転じた景気は,1960年代後半の〈いざなぎ景気〉を超える戦後最長の大型景気として91年(平成3)まで続いた。経済の好調に支えられて,中曾根内閣も1987年11月まで5年間の長期政権となり,その後は自民党最大派閥を率いる竹下登内閣となった。天皇は111日の闘病の後,89年1月7日に死去し,皇太子明仁親王が即位した。政府は,政令で翌1月8日から年号を平成と改めた。昭和の年号を冠する期間は,日本歴史上最長の62年と14日間に及んだのである。
戦後日本は,戦後改革によって政治・経済の民主化を成し遂げ,人権と自由がいちおう保障された民主主義体制を実現した。しかし一方では議会制民主主義の形骸化,経済成長の矛盾と二重構造,さまざまな社会的・身分的格差,管理社会化と疎外といった問題を未解決のままかかえている。また占領後の進路を,日米安保体制,軍事同盟という方向に選んだことで,アメリカの世界戦略の中に組み込まれ,たえず戦争の危機にさらされるという問題も存在している。しかし昭和時代の末期には世界情勢は大きく変わって,1985年にソ連共産党書記長にゴルバチョフが就任しペレストロイカ(改革)を推進すると,ソ連国内をはじめ東ヨーロッパ諸国に大きな変動が起こった。自由と民主主義を求める民衆の動きが大きなうねりとなり,90年にドイツの統一,91年にソ連の消滅をもたらすことになるのである。このなかで世界の経済大国となった日本は,どのような国際的地位を占めていくかという大きな課題をかかえている。
→日本資本主義 →昭和天皇
一連の戦後改革は,日本社会に画期的な変化をもたらした。人権の尊重,男女の平等,言論・思想・集会・結社・学問・信仰の自由などは,いずれも基本的には日本国民がはじめてみずからのものとしたのである。このことは家族関係にも社会関係にも大きな影響を及ぼした。家父長制的家族制度は解体し,夫婦単位の核家族が一般化した。労働組合をはじめとするさまざまな政治,社会,思想,文化に関する組織が活動の場を得た。占領期間の前半にはアメリカ軍の検閲があったものの,その後は言論も出版も自由となり,性や風俗についても自由になった。これらはみな戦前の日本ではとうてい予想できなかった状態である。
この自由を背景に,戦後のマス・メディアの発展はめざましいものがあった。敗戦直後の極端な用紙難のなかで,時事評論誌や風俗雑誌が次々と創刊され,解放感をふりまいたのにはじまって,出版界の発展は急速で,1950年代後半からは週刊誌がひろがり,男性向け,女性向け,少年向けなどさまざまなジャンルの週刊誌が刊行され,風俗や流行をリードした。とくに発展が著しかったのは放送の分野で,51年にラジオの民間放送がはじまり,娯楽放送を中心にたちまち全国にひろがった。とりわけテレビの発達とその影響は甚大であった。1950年にNHKが実験放送を開始し,53年に日本テレビが民間放送としてはじめて本放送を開始してから,その人気と普及は著しく,1950年代後半からの高度成長のなかで,テレビ受像機は電気洗濯機,電気冷蔵庫とともに〈三種の神器〉と呼ばれて急速に普及した。62年には契約者数が1000万台を突破した。
テレビの普及は,生活や文化に決定的な影響を与えた。標準語がひろがって方言の差がなくなり,都市も農村も流行の風俗に統一された。これに拍車をかけたのが交通網の整備で,国鉄の主要幹線は1950年代に電化され,64年には東海道新幹線が開業し,さらに航空網の整備もすすんで,国内のほとんどが一日圏内に入った。マス・メディアの送り出す巨大な量の情報は,国民の思想さえ左右する力をもち,全国的に,言語,意識,生活,風俗の画一化がすすんだことが戦後の大きな特徴である。
執筆者:藤原 彰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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