東五百住村(読み)ひがしよすみむら

日本歴史地名大系 「東五百住村」の解説

東五百住村
ひがしよすみむら

[現在地名]高槻市東五百住町一―三丁目・如是によぜ町・さくら丘北おかきた町・さくら丘南おかみなみ町・登美の里とみのさと町・今城いましろ町・朝日あさひ町・さいわい

津之江つのえ村の西にあり、女瀬によぜ川の中流両岸に位置する。西は西五百住村。富田とんだ街道が北東から南西に抜ける。「五百住」の地名について明治一二年(一八七九)の「東五百住村誌」は「日本書紀」安閑天皇元年条を引き、天皇が屯倉の地を求め良田を選ばせたとき、凡河内直味張は勅使を欺いてこれを拒み(七月一日条)、その懲罰として郡司の職を解かれ「郡毎に、钁丁春の時に五百丁、秋の時に五百丁を以て、天皇に奉献りて、子孫絶たじ」と願出た話(閏一二月四日条)を掲げる。この味張が竹村たかふ屯倉(現茨木市)田部として供した河内県の部曲五〇〇丁の居住したのが当地であるとする。また村誌は「俗伝曰」として、左大臣源融の京六条河原院に尼崎あまがさき(現兵庫県尼崎市)から潮水三〇石を運ぶための数百の民の旅宿であったものが、ついに栖となったという説も記す。葛井ふじい(現藤井寺市)蔵大般若経巻六〇〇の建武三年(一三三六)一二月二三日付奥書に「摂州島上郡五百住妙福寺」とみえる。

貞治元年(一三六二)七月二二日付治部卿殿(勧修寺経量)宛の後光厳院院宣案(鹿王院文書)の相伝を承認されたうちに「摂津国五百住村金武名」がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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