日本古代の屯倉(みやけ)に付属する田地の耕作者。《日本書紀》安閑1年閏12月条によると,〈三島竹村屯倉〉は大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり)のさし出す钁丁(くわよほろ)によって耕作され,これが〈河内県の部曲〉を田部とすることのはじめである,としている。また欽明17年10月条によると,〈大身狭(おおむさ),小身狭屯倉〉をおいたとき,〈処々の韓人〉〈高麗人〉をもっておのおのの田部としたとある。さらに安閑1年10月条によると,小墾田屯倉,桜井屯倉に国ごとの田部を,難波屯倉に郡ごとの钁丁を付して,おのおの天皇の皇妃に与えたとある。これらからみて,田部は屯倉の田地の耕作者として,その周辺の地方豪族配下の農民を恒常的臨時的に割きとったものであると考えられる。钁丁とは,開墾用具としての钁を用いる丁のことで,屯倉の田地の開墾労働力としての側面を重視した用語であって,本質的には田部と差はない。田部の掌握は,白猪(しらい)屯倉の場合にみられるように,6世紀中葉には丁籍による掌握へと進展している。
執筆者:栄原 永遠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大化前代の部民。屯倉(みやけ)の田地を耕作した。钁丁(くわよぼろ)も田部の一種であろう。「日本書紀」安閑元年閏12月条に,大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり)が春秋に钁丁500丁ずつの献上を約束し,この時から三島の竹村(たかふ)屯倉の田部には,大河内氏のもとにある河内県(こうちのあがた)の部曲(かきべ)をあてたとある。欽明紀17年10月条には「処々の韓人(からひと)を以て大身狭(おおむさ)屯倉の田部にす。高麗人(こまびと)を小身狭(おむさ)屯倉の田部にす」とある。田部には地方豪族の私有民や渡来人をあてたことがわかる。とくに吉備に分置された白猪(しらい)屯倉では田部の丁籍が作られ,敏達朝には田部の名籍が作成されて律令制下の戸籍・計帳の源流となった。律令時代には田部姓の人々や田部郷が諸国に分布し,田部勝(すぐり)・直・臣(おみ)・連(むらじ)など姓をもつ者も多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
律令(りつりょう)国家成立以前の皇室領であった屯倉(みやけ)で働いた耕作民。部民(べのたみ)の一種であるため、部の字を伴う。569年(欽明天皇30)、欽明(きんめい)天皇の命を受けた白猪史胆津(しらいのふひといつ)が、吉備(きび)の白猪屯倉(岡山県津山市付近)に派遣された。胆津は、屯倉にかかわりのある田部の丁籍を定め、その屯倉の田令(たづかい)=管理者に任命された。この時期を画期として、屯倉の周辺にいて屯田(みた)の耕作にあたった農民を、大和(やまと)王権は直轄下に置くようになった。そして同じころ、全国各地に多様な部民が置かれ、大和王権の全国支配網が張り巡らされるようになった。
[原島礼二]
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…北境に長門一の高峰華山(713m)がそびえる。中央部に田部盆地があり,南流する木屋(こや)川に田部川が合流して豊浦郡の穀倉地帯を形成している。合流点にある中心集落の田部は萩と下関を結ぶ赤間関街道の市場町として発達した。…
…これらの部民は各地域の農民集団をさし,地方の国造(くにのみやつこ)にひきいられ,主家に力役や貢納の義務を負ったが,名代はさらに国造の一族から舎人(とねり),采女(うねめ)などを天皇・后妃の近侍者として差し出す慣習があった。また,朝廷の直轄領としての屯倉(みやけ)の耕作などに従う田部(たべ)も,各地の農民集団をさしている。これはある意味では,魏の豪族のもとに編成された部曲と共通する面もある。…
※「田部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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