中条村(読み)なかじようむら

日本歴史地名大系 「中条村」の解説

中条村
なかじようむら

[現在地名]十日町市中条

信濃川の東側に立地。南は支流大井田おおいだ川、北は飛渡とびたり川を境とする。東部の山地は奥深く、中世には上田うえだ庄・藪神やぶかみの境界に及ぶ広域の村。この境には四十日しとか峠をはじめ、五〇〇―六〇〇メートル級の山脈が走り、その沢々から発する小流は枯木又かるきまた川・魚田よんた川のほか数本が団扇状に飛渡川に集まる。これらの小流に沿って多数の集落が散在している。現在集落は信濃川沿いの平坦地の南から北へ、塚田つかだ八幡やわた上原かみはらかみ町・あさひ町・とうげ・中条新田・梅沢うめざわ北原きたはらに至って飛渡川の下条げじよう村境となる。この地域を総称して中条とよぶ。飛渡川を南東に遡上すると、市之沢いちのさわ嘉勝かしよう轟木とどろき焼野やけの魚田川よんたがわ新水しんずい宇田うださわ菅沼すがぬま小貫こつなぎ殿畑とのばたけやま新田・柴倉しばくら東枯木又ひがしかるきまた・西枯木又と散開している。文化二年(一八〇五)の「十日町組地誌書上帳」によれば、このほかの枝村名に太子堂たいしどう鶴島つるしま新田・入山いりやま杉島すぎしま新田・小中島こなかじま新田・小池谷こいけだに・上原新田などがみえる。

道は旧善光寺道と現国道一一七号が並行して信濃川沿いを南北に貫通する。東部へは中世からの高田たかだ(現上越市)方面への脇街道が木落きおとし(現中魚沼郡川西町)の渡船から飛渡川に沿って上り、枯木又から四十日峠を越えて六日町むいかまち(現南魚沼郡六日町)に至る。この道は飛渡川の近く宇田ヶ沢から分岐し、後山うしろやま一村尾ひとむらお(現南魚沼郡大和町)に至って三国街道に合する。文明一八年(一四八六)道興准后が「廻国雑記」に記した道程は、この道といわれる。脇街道はまた魚田川で分岐しており、三坂みさか(現北魚沼郡堀之内町境)を越えて田河たがわ川に沿って下り、魚野うおの川を渡河して魚野川支流の破間あぶるま川について登り、六十里越ろくじゆうりごえ(現北魚沼郡入広瀬村)から会津に至る道も古道とする説がある。


中条村
ちゆうじようむら

[現在地名]中之島村中条

信濃川右岸にあり、上流はまつさき新田、下流は真野代まのしろ新田。文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)の、出雲田いずもだ庄一五ヵ村のうちに村名がある。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に「中条・八日町」と並記され、二四一石五升。八日町は、明治一〇年(一八七七)の中条村旧記(中之島村郷土史)に当村地内小路名として記される「八日町」と関係するか。慶長一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)によれば毛付二五〇石二斗余・荒二四四石二斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)では一三軒に二石二斗の炉役が課されている。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると物成高六八一石六斗余、家八七・人数六九六。


中条村
なかじようむら

[現在地名]韮崎市中田町中条なかだまちなかじよう

駒井こまい村の北、しお川右岸の氾濫原に位置し、西方は韮崎台地(七里岩台地)上にまで及ぶ。同台地下に山本やまもと、台地上には上野うえのの枝郷がある。氾濫原は藤井堰・黒沢くろさわ川などの水利に恵まれ、駒井村とともにいわゆる藤井平ふじいだいら五千石の中心村の一となっている。東部を佐久さく往還が、西部の上野地内を甲州道中はら路が通過する。永禄四年(一五六一)の番帳に「中条の禰き」とみえ、武田家は当地の鎮守諏訪明神(現御牧子安神社)の禰宜に対して府中八幡社への参勤を命じている。天正一〇年(一五八二)九月五日水上六郎兵衛利光は「中条之内弐百貫文」などを本領として安堵され(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)、翌一一年閏正月一四日には再安堵を受けている(「徳川家康印判状写」同古文書)。同年六月二日、諸星民部右衛門尉政次は本領のほかに信州諏訪の知行改替として「中条内高野分三貫文」を宛行われている(「徳川家康印判状写」同古文書)


中条村
ちゆうじようむら

[現在地名]飯山市大字みどり

黒岩くろいわ(九三八メートル)の南方尾根の先端、滝沢たきざわ川の外様平とざまだいらへの出口に立地。北峠きたとうげ富倉とみくら道の入口にある。

至徳四年(一三八七)の市河頼房軍忠状(市河文書)に「当国常岩中条高梨・村上同心輩御退治刻、致忠節」とあるのが初見で、常岩ときわ牧内の地名として出る。明徳三年(一三九二)幕府に所領安堵を請うた高梨朝高言上状案(高梨文書)に「常岩中条内小堺郷」とあり常岩牧中条の北限を示す。応永七年(一四〇〇)信濃守護小笠原長秀は更級さらしな郡大塔の合戦後直ちに市河刑部大輔入道(頼房)の本領並びに「水内郡常岩中条、中曾根郷内小穴河・平滝」(市河文書)の買得地を安堵した。


中条村
なかじようむら

[現在地名]小布施町中条

東は雁田かりた、西は中子塚ちゆうしづか、北は六川沖ろくがわおき、南は松村新田まつむらしんでんと道路・用水堰で境し、小布施扇状地右寄りの小村である。

嘉暦四年(一三二九)の「諏方上宮五月会(中略)頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「御射山左頭、狩田中条矢野伊賀入道」とある。この中条が初見である。中世は東条庄狩田郷に属した。天正六年(一五七八)の諏訪大社文書に、「高梨内原郷・同堤郷・同桜沢郷・小布施半郷・聖中条郷、(中略)従右郷中集造営銭」とある。


中条村
なかじようむら

[現在地名]甲府市大里町おおさとちよう

関口せきぐち村の南東、あら川西岸にある。南は西下条にししもじよう村。「甲斐国志」によれば、この一帯の北部を上条村、南部を下条村とし、当地と併せて三条と称することもあったといい、当村と北西の二日市場ふつかいちば村はもと一村だったと推定される。「一蓮寺過去帳」には室町時代前半頃と推定される年未詳八月一八日供養の契阿弥陀仏に「中条」がみえるが、当地のことかどうかは確証がない。慶長古高帳に村名がみえ、高一五八石余。


中条村
なかじようむら

[現在地名]浜北市中条

長上ながのかみ郡に所属。小松こまつ村の東、馬込まごめ川上流左岸に位置する。天正一七年(一五八九)八月九日の村松国吉証文(村松文書)によれば、「中条之(名カ)職」および田地を村松三右衛門尉国吉が「おつる」と惣次に譲っている。なお両名に譲られた田地は、同年三月六日付で村松国吉がお鶴と杉浦宗次郎に与えた一町五反三歩の田畠と五二〇坪の居屋敷とみられ、惣次は杉浦宗次郎と同一人物とみられる(「田畠・屋敷地書上帳」同文書)

松平忠頼領郷村帳では高三五二石余、田一七町一反余・畑二六町八反余、ほかに天王(現須賀神社)領一石余・安楽あんらく(現臨済宗方広寺派)領二石。


中条村
ちゆうじようむら

[現在地名]韮山町中条

狩野かの川とふる川の合流点に位置し、北は寺家じけ村。下田街道沿いの村方、北条ほうじよう三ヵ村の一つ(天保郷帳など)。中世は中条郷と称された。近世初頭は韮山城主内藤信成領で、文禄五年(一五九六)検地を受ける(小松家文書)。慶長六年(一六〇一)幕府領、宝永七年(一七一〇)相模荻野山中藩領となり幕末に至る(韮山町史)


中条村
なかじようむら

[現在地名]三島町中条

くろ川右岸の沖積地に開けた村。東は新保しんぼ村、西は脇野町わきのまち村、南は上岩井かみいわい村、北は大野おおの新田。元和六年(一六二〇)長岡藩領、文政三年(一八二〇)に与板藩領となり幕末に至る。元和六年の長岡藩知行目録に高三八〇石八斗余。旧高旧領取調帳では高四一五石六斗余。天明元年(一七八一)の当納状(片桐ムツ氏蔵)には、この年までの用水不足にかかわる減免状況が記される。それによると、安永二年(一七七三)には「無類の旱損」となり、開作の遅延・用水不足のところへ、その後降雨が続き、郷中から人馬の援助を受けた。


中条村
なかじようむら

[現在地名]中条村中条

東南は長井ながい村と土尻どじり川をもって境し、西は山上条やまかみじよう(現信州新町)青木あおき村と、北は梅木うめき村・地京原じきようはら村と境する。東西二一町、南北二五町。大町おおまち(現県道長野―大町線)に沿った街村と山地の農山村からなる。村名の初見は、正保の信濃国郷帳に「高六百四拾三石三斗九升 中条村」とある。中世春日かすが(俗称)に属し、寛文元年(一六六一)中条村・専納せんのう村に分れて二村となったが、明治六年(一八七三)専納村を合して一村となる。


中条村
なかじようむら

[現在地名]出雲崎町上中条かみなかじよう

はな村・上野山うえのやま村の東、北は乙茂おとも村、南は小竹こだけ村、東は沢田さわだ村。乙面おとも保中条の遺称地と思われる。永享二年(一四三〇)二月二七日の室町将軍家(足利義教)御教書(菊大路文書)に「越後国乙面保内山俣上中下条并中条藤牧分」がみえる。正保国絵図に高一六〇石余で幕府領。その後高田藩稲葉氏領となり、元禄一四年(一七〇一)稲葉氏の佐倉藩転封に際しても同氏領。天明六年(一七八六)稲葉氏淀藩領が幕府領となったときには、出雲崎代官所支配となったとみられる。旧高旧領取調帳では高二六八石五斗余で、出雲崎代官所支配。出雲崎町の石井いわい神社領高三〇石六斗余があるのは、元禄三年(一六九〇)の十二所権現神領御寄付被為遊候覚(出雲崎町役場文書)によると、佐渡奉行鎮目市左衛門が御金船で渡航の折、出雲崎沖で遭難しかかった。


中条村
なかじようむら

面積:三三・〇八平方キロ

上水内郡の西南部、土尻どじり川のさい川への合流地西に位置する。北は虫倉むしくら(一三七八メートル)から東に連なる一二〇〇メートル前後の高峰が鬼無里きなさ村・戸隠とがくし村との境をなし、この方面の交通をはばんでいる。これらの高峰の山腹にできた数多くの小集落から成り立つ農山村である。

明治二二年(一八八九)江戸時代からの五十里いかり村・長井ながい村・中条村・青木あおき村・奈良井ならい村が合してさかえ村となり、念仏寺ねんぶつじ村・梅木うめき村・地京原じきようはら村・伊折いおり村が合して日里ひさと村となった。


中条村
なかじようむら

[現在地名]高遠町大字長藤おさふじ

藤沢ふじさわ川へ西方から黒沢くろさわ川が合流する地点の村。西は黒沢村、北は四日市場よつかいちば村、南はなか村に接する。

正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に「一高九拾壱石 中条村」とあるのが初見である。


中条村
ちゆうじようむら

[現在地名]吉川町下中条しもちゆうじよう

大出口おおでぐち川北岸にあり、東は赤沢あかさわ村、西は北代石きたたいし村、南に中条ノ池があり、池畔に経塚が残る。天正一四年(一五八六)から同二〇年の間のものと思われる正月二八日の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に中条村とみえ、本願寺へ五〇疋(五〇〇文)を懇志として送っている。この中条村は当村のことと思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外拾六方分中条村 中」とみえ、本納三八石八斗三合九勺・縄高一〇二石八斗九升四合七勺、家六軒・一八人とある。


中条村
なかじようむら

[現在地名]清里村上中条かみなかじよう

東は北流する櫛池くしいけ川を挟んで棚田たなだ村、南西は鶯沢うぐいすざわ村と接する。正保国絵図に村名がみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高四六石六斗余。天和三年郷帳には高五一石四斗余、うち山高二石一斗一升七合。


中条村
なかじようむら

[現在地名]伊那市大字西箕輪にしみのわ 中条

御射みさ山の麓にあり、天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「百八拾壱石六斗七升五合三勺 中城」とある。また天保四年(一八三三)の「箕輪記」付録に「いにしへ箕輪の西山に諏訪明神の大社あり、余多の神領ありて、祠官唐沢備前といふ人これを掌る、其居所の地を中条村といふ、条は城の字なるへし」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android