律令国家の地方行政組織の基礎単位である郡の官人の総称。広義には長官・次官の大領(たいりよう)・少領(しようりよう)と書記にあたる主政(しゆせい)・主帳(しゆちよう)の四等官(正員)を意味する。狭義には大領・少領のみをいい,この場合は郡領(こおりのみやつこ)といった。郡司制度は,孝徳朝に出現し持統朝には全国的に整備されたと思われる評(こおり)の制度を継承した郡制と同様,評督(長官),助督(次官)あるいは評造と呼ばれた評の官制を基礎に,701年(大宝1)の大宝令によって成立した。〈大化改新之詔〉(《日本書紀》大化2年1月条)第2条には,国司・郡司を置き,郡司は国造の中から選任せよとあるが,この記事の大半は大宝令の条文を用いて作文したもので,とりわけ郡司については文字どおりにはとうてい信頼できないことが明らかにされている。郡司の定員は郡の規模によって異なる。郡司は郡家(ぐうけ)の管理職ともいうべきものであり,郡家にはほかに多数の雑員と呼ばれる職員がいて郡家の機能が維持されていた点に留意しなければならない。
郡司の選任は,まず国司が候補者を選び,これを式部省に送り,そこで試問を経た後に正式に任命された。その際の選考基準は,選叙令の郡司条によれば,大領・少領については〈性識清廉にして時務に堪えたらむ者〉,主政・主帳については〈強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして書計に工(たくみ)なる者〉とある。また,ただし書として〈才用同じくば,先ず国造を取れ〉ともあり,第一に能力が,次いで家柄が重んじられる規定であった。しかし現実には,立郡以来郡司職を世襲してきたという氏族の系譜や家柄が重視され(譜第主義),ついで能力・舅甥・長幼の序が考慮された。また譜第主義についても,8世紀中ごろまでは氏族系譜が,ついで家系が重視されるようになり,能力主義が現れるのは9世紀以降のこととされている。東国を中心に,いわゆる神火(じんか)が頻発するのは,一族内部での郡司職の争奪が主原因であったと見られている。
郡司は〈自勘自申の職〉といわれ,郡領は所部の撫養と郡事の検察,すなわち郡内の司法・行政について相対的に独立的な権限を有し,中央から派遣された国司がこれを監督した。郡司はまた終身の官であり,いわゆる官位相当制が適用されないうえ,待遇においても禄や食封や位禄はなく,ただ職分田のみが大領に6町,少領に4町,主政・主帳は各2町と国司よりも多く(大国の守でも2町6反)与えられただけで,官人としての給与保障は貧弱であった。したがって生活基盤は実力に依存せざるを得なかったが,その源泉は在地での家父長的な一族結合にあった。702年の筑前国嶋郡川辺里戸籍残簡は,同郡大領追正八位上勲十等肥君猪手(ひのきみのいて)の家族構成をほぼ今日に伝えているが,それによると,猪手は当年52歳,嫡妻のほかに妾3人をもち,子孫など直系親族31名,弟・妹・従父兄弟等の傍系親族30名,寄口(きこう)(縁者)26名,奴婢(ぬひ)37名の計124名からなる戸(こ)を形成し,他戸と隔絶した規模を誇っている。この複合的大家族構成は,家父長的世帯共同体と家内奴隷制とが結合した家父長的奴隷制家族で,日本古代家族の一典型とされてきたものである。猪手はこの家族結合を基盤に口分田総額13町6反120歩に郡司職田を加えた約20町の農業経営のほか,海上交通手段の掌握や製塩などにも関与していたと思われる。
執筆者:原 秀三郎
10世紀末の行政改革によって,郡司の地位は著しく下降した。それ以前の郡司が掌握していた広範な権益は国衙(国の役所)に吸いあげられてしまった。たとえば,徴税の実権は郡司の手から離れて,国衙が派遣する検田使・収納使などの役人の手に移り,郡司はその補佐役としての地位に落とされた。大領・少領などの正員郡司,あるいは擬大領・擬少領などの擬任郡司,さらにはまた国目代(もくだい)など国衙官人兼任の郡司をも加えて,多くの人数からなる郡司の集団によって維持されてきた郡衙(郡の役所)の機能が失われて,ただ一人の郡司が在任するだけ(一員郡司制)となったのも,この時期からである。そして,新しい中世的な郡・郷・保・荘園などの誕生によって,旧来の郡域そのものまでもが,分裂・解体を余儀なくされることになった。古代の地方豪族たる郡司は没落の日を迎えた。
だが,衰えたりとはいえ,地域社会にあって郡司の地位は中世にいたるも,それなりに権威を保ちつづけ,新興の在地領主,地方武士らによって継承されることとなった。とくに南九州などでは,郡司の勢力が強く,惣地頭として入部してきた鎌倉御家人にたいして,一歩も退くことなく自分の立場を主張しつづけ,在来の土着勢力を保持した。備後国大田荘や陸奥国好島荘などでは,郡司は公文(くもん)などとならんで下級荘官として給田を与えられている。荘園制的支配機構の末端にあって,それを支える役割を郡司がはたしていたことが知られる。あるいはまた,陸奥国宮城郡山村の郡司太郎のように,新たに入部してきた地頭の所務代官となって,在来の土着勢力を温存した人々もあった。荘園や地頭の影に隠れて目だたないが,意外にしたたかな土着勢力を,中世の郡司は保ちつづけたものと見られる。
→郡
執筆者:入間田 宣夫
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律令制(りつりょうせい)下において、国司の管轄下にあって郡務を担当した地方官。大宝令(たいほうりょう)制定以前に郡は評(ひょう)と記し、長官を評督(ひょうとく)、次官を助督(じょとく)といい、実務担当者を置く三等官制であった(天武(てんむ)朝以降四等官(しとうかん)制となる)。なお評の官人を評造(こおりのみやつこ)ともいった。大宝令の施行後、評は郡に改め、長官を大領(だいりょう)、次官を少領(郡領と称す)として、主政、主帳を実務担当者とするが、郡の規模により郡司の定員に差がある。郡領の補任(ぶにん)は、性識清廉にして時務に堪える者を、主政、主帳は書算に巧みな者をあてる才用主義を令の原則としたが、おおむね譜第(ふだい)主義により、国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)などの伝統的地方豪族の子弟が世襲的に郡領に補任された。その郡領は終身官で、郡領に補任されると、無位であってもただちに従(じゅ)八位上、従八位下を授けられる官位非相当の官である。また郡領には職分田(しきぶんでん)が与えられるが、大領のそれは国守よりも多く、その子弟は優先的に国学に入学できるなど、多くの特権を与えられた。しかし主政、主帳にはこのような特典はない。それに彼らは身分的に郡領と差異が大きく、郡領に昇進するのも容易ではなかった。郡司制は、とくに補任の方法(才用、譜第主義)をめぐって変遷があったが、9世紀初頭に譜第主義に定着した。そのころから正任郡司のほかに、権任(ごんにん)、員外、擬任(ぎにん)の郡司が置かれ、一郡に複数の擬任郡司が置かれたが、10世紀に入ると国司代、国目代(もくだい)がそれにかわり、それらが11世紀以降の在庁官人へと発展したのである。そのころに郡司も一郡一員制になった。
[米田雄介]
『米田雄介著『郡司の研究』(1976・法政大学出版局)』
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律令制下の地方行政区画である郡の官人。大領・少領・主政・主帳の四等官からなり,大領・少領は郡領とも称する。孝徳朝に設置された評(ひょう)の官人の後身で,大宝律令の制定で郡司となった。とくに郡領には伝統的支配力をもつ地方豪族が任用され,資格として孝徳朝以来の譜第(ふだい)が重視された。終身官で職分田の額も国司より多く,職掌は郡内の庶政全般にわたる強大なものだったが,国司に対する下馬の規定などから,身分的には明確に国司の下位におかれた。9世紀以降には,伝統的地方豪族の衰退を背景として,擬郡司(ぎぐんじ)や郡老(ぐんろう)・郡目代(もくだい)・郡摂使(ぐんせつし)など,令制にない職名をもつ郡司が登場して国郡行政機構はしだいに一体化し,郡司の地方行政機構での特殊性は薄れていった。
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…評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。令の規定では,50戸よりなる1里(のち郷と改称)で20里以下16里以上を大郡,12里以上を上郡,8里以上を中郡,4里以上を下郡,2里以上を小郡とし,各郡ごとに郡家(ぐうけ)とよばれる役所を置き,郡司(大領・少領・主政・主帳の四等官)が政務をとった。713年(和銅6)5月,《風土記》の撰進が命ぜられたのと同時に郡郷の名には好字が使われるようになった。…
…
[中世]
守護,戦国大名の支配の下で,郡を単位として地域的支配を行う郡代官。郡使,郡司などとも呼ばれる。守護,戦国大名の領国支配機構は守護代の下に郡単位に郡代を置いている場合がある。…
… 第1は,1005年(寛弘2)の筑前国糟屋西郷司,14年(長和3)の筑前国嘉麻南郷司のように,郡を東西あるいは南北に分割したものをたまたま郷と称したために,その官人を郷司と呼んでいるケースである。このような郷司がもっとも早くみられるが,郡が方位によって分割され,小規模化しているだけで,かかる郷司の職務は郡司となんら変わるところはない。第2はもともと郷長がおかれていた郷(古代以来の郷で,《和名抄》郷ともいう)に郷司が出現するケースである。…
…こうした中で受領の官物請負化が助長され,国務運営のため受領は一族・郎等などを国務に参画させる傾向が生じ,在来の任用国司は在庁へ転化する事態が現出した。一方では,かかる国司制の変化が郡司制の変化を招き,国衙権力による郡司の包摂化が促進される。郡司の在庁化といわれる現象がこれである。…
…長上には,中央諸官庁や大宰府・諸国司などの四等官(しとうかん),また刑部省の大・中・少判事などのように,四等官に準ずる位置づけをもつ品官(ほんかん),および特殊な才能などによって,関係官庁に長上勤務を命ぜられた別勅・伎術長上があった。また地方の郡司四等官や軍団の下級指揮者である大・少毅(き)(軍毅)も長上であったが,ともに外長上(げちようじよう)とよばれ,この外長上と対比するとき,前者のグループは内長上とよばれた。【野村 忠夫】。…
…また収取単位としての名の発達が著しく,荘園・公領内部にも百姓名が成立している。さらに東国の荘園・公領は下司(げし)・郡司の下に郷があるという単純な構成であるのに対し,西国では領家職(りようけしき)・預所職(あずかりどころしき),下司職,公文職(くもんしき)などが重層する,いわゆる〈職(しき)の体系〉を顕著に発達させているのである。 これは直接的には,それぞれの単位を請け負い,管理している郡司,郷司,名主(みようしゆ)などの領主のあり方の差異の現れとみることができるが,より根底的にはそれを支える社会の構造の違いがこの差異を生み出したものと思われる。…
※「郡司」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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