郡家村(読み)ぐんげむら

日本歴史地名大系 「郡家村」の解説

郡家村
ぐんげむら

[現在地名]高槻市郡家本ぐんげほん町・郡家新ぐんげしん町・岡本おかもと町・今城いましろ町・清福寺せいふくじ町・朝日あさひ町・南平台なんぺいだい一―五丁目など

芥川あくたがわ村の西にある。芥川右岸の台地下に位置し、北端を芥川が北西から南東に流れ、中央部を西国街道が東西に走る。古代条里制の遺称とされる小字に五ヶ坪・六ノ坪・七ヶ坪がある。村名は古代律令制下に島上しまかみ郡衙が所在したことによる。永禄二年(一五五九)五月一九日の三好長慶水論裁許状(郡家区有文書)に「郡家惣中」とみえる。これは芥川右岸の村域北端に設けた井手床について、左岸の真上まかみ村より往古取水したものとして訴論に及んだのを、芥川城主三好長慶が検使を派遣、争点の弘治三年(一五五七)「かへ床」(井手)のほか、古井手、天文二二年(一五五三)「かへ床」・今井手床とも、「任当所理運」と裁定したもの。三好三人衆連判(花押)の絵図が添付されている。また「蓮如上人御一代記聞書」によると、文亀―永正(一五〇一―二一)の頃浄土宗に熱心に帰依した「津ノ国グンケノ主計トマウス人」がいたという。

郡家村
ぐんげむら

[現在地名]東灘区御影町郡家みかげちようぐんげ御影中町みかげなかまち一―二丁目・御影山手みかげやまて一丁目

御影村の北、六甲ろつこう山地南麓沖積地に位置する。村名は兎原うはら郡の郡衙所在地にちなむとみられる。文永三年(一二六六)四月六日の飛鳥井教定譲状(成簀堂文書雑文書)には「くうけのかう」とみえ、地頭職を女子かうしの内御前に譲っている。永仁三年(一二九五)七月九日の伏見天皇綸旨(東大寺文書)では、東大寺別当頼助に郡家庄などのことについて関東に訴えるよう命じている。嘉元三年(一三〇五)四月頃とされる摂渡庄目録(九条家文書)には東北とうほく(現京都市左京区)領のなかに摂津国「郡戸庄免田十二町年貢油二石」とみえ、御祈祷料所とある。

郡家村
ぐんげむら

[現在地名]丸亀市郡家町

柞原くばら村の南、三条さんじよう村の東に位置する。村の西側南北の道は丸亀・金毘羅街道で、港から一里の一里屋いちりやに茶堂があった。古代那珂なか郡家ぐんけ(和名抄)の遺称地。文禄五年(一五九六)八月六日、山崎治左衛門が当村の一〇三石五斗ほかを宛行われている(「生駒一正宛行状」山崎家文書)。南部に白鳳期から存在したとされる宝幢ほうどう寺跡がある。同寺跡付近に郡衙があったと推定されており、奈良―平安期の瓦が出土している。また南海道が地内を東西に通ったと考えられる。領家りようけ地頭じとうの地名が残る。

寛永国絵図に村名がみえ、脇にはらをも含む郡家の高一千五七八石余が記される。

郡家村
こおげむら

[現在地名]郡家町郡家

現郡家町の西部、私都きさいち川の東岸に位置し、門尾かどお村で同川を渡河し南下する若桜わかさ往来が通る。庄郡家しようこおげ村ともよび(因幡志)、これは八東はつとう郡の郡家村(現船岡町)に対して、賀茂かも庄の郡家村の意である。地名は古代の八上やかみ郡衙(郡家)に関係するとも、地形から発生した高下が郡家に転化したともいわれる。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保国絵図正保郷帳には河下村と載せたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成に際して郡家村と正したとある。

郡家村
こおげむら

[現在地名]船岡町郡家

上野かみの村の南東に位置し、見槻みづき川が形成する見槻谷の北端に立地する。地先で同川はふな川と合流する。八上やかみ郡の郡家村(現郡家町)と区別するため、花房はなぶさ郡家・はやぶさ郡家とも称した(因幡志)。正保国絵図・正保郷帳には高下村と記載されたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成にあたって郡家村と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は四四三石余、本免は六ツ一分。

郡家村
こおげむら

[現在地名]日南町中石見なかいわみ

大倉おおくら(一一一二メートル)の南麓、北西流する石見川右岸に位置し、北西は宗金むねかね村。高下・高家などとも記し、古代の日野郡の郡家所在地とする説がある(伯耆志・日野郡史)。正保国絵図に「高下四ケ村」とみえ、正徳元年(一七一一)の郷村高辻帳には「古ハ高家四ケ村」と注される。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「コウゲ」と訓ずる。元禄一四年(一七〇一)是次これつぎ・宗金・友広ともひろの三ヵ村を合併したが、下札は従来どおり各村に下された(藩史)。拝領高は四〇三石余、本免五ツ。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一〇四石余、竈数一五。

郡家村
ぐんげむら

[現在地名]篠山市郡家

篠山城下の北西に位置し、藤岡ふじおか川が流れる。古代に官衙が置かれていた地と推定され、中世は郡家庄などとみえる。篠山城下の縄張りにより村域の一部が充てられた。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「郡家村」とみえ、高六〇二石余のうち二〇〇石は「笹山町作」と記される。正保郷帳では田高五五〇石余・畠高一二石。元禄郷帳では高五六八石余。「丹波志」では日置ひおき郷のうちで、高四三八石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では郡家組で、家数三二・人数一三一。

郡家村
こおげむら

[現在地名]気高町郡家

高江たかえ村の南、逢坂おうさか谷口部東方の山麓に位置する。南は山宮やまのみや村。正保国絵図では高下村と記されていたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際郡家村と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は二二五石余、本免は四ツ九分。藪役銀三匁一分五厘が課せられ(藩史)、山住氏・箕浦氏・渋屋氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数二五。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二七二石余、竈数二九。

郡家村
こおげむら

[現在地名]関金町郡家

湯関ゆのせき村の南西に位置する。備中往来が通り、古くは高下村・郊家村とも記した(正保国絵図など)。拝領高は三〇二石余、本免は四ツ四分。藪役銀一六匁を課されていた(藩史)。元禄一〇年(一六九七)の年貢免状写(郡家自治公民館蔵)によれば朱高三三八石余、うち永荒三〇石余・「亥ノ永川」七石余、ほかに畑地から新たに田地となった分六石余。栗池の池田氏、高原氏・村上氏の給地。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三二〇石、竈数一〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三二五石余、竈数二九。天保一四年(一八四三)の田畑字寄地続帳(郡家自治公民館蔵)では田畑合せて二五町二反余(うち畑一町九反余)で、寛永一〇年(一六三三)の検地時に比べ二町九反余の増反となっている。

郡家村
ぐげむら

[現在地名]大野町郡家

鹿野かの村の東方、根尾ねお川右岸にある。「新撰美濃志」は「ぐうけ」と読んでいる。「和名抄」記載の大野郡郡家ぐんけ郷の遺称地で、また古代の役所である大野郡家の遺称であるとされる。天正年間(一五七三―九二)頃と推定される龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)に郡家二〇貫文とあり、端裏書に「一鉄公より、寺領所之覚」と記される。慶長郷帳に「ぐけ村」とみえ、高一五六石余。慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によれば「くけ村」一五六石余が石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)に宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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