古代大和朝廷の直轄領。稲を収納する倉を中心に,田地や耕作民を伴うようになり,大和朝廷の経済基盤となった。《日本書紀》によれば4,5世紀に大和朝廷の根拠地に近い大和,河内に屯倉が置かれるようになったが,それは池溝開発や築堤などの灌漑治水事業を前提とするものであった。たとえば仁徳11年に茨田(まんた)堤の造営が見え,13年に茨田屯倉が置かれ,崇神62年に依網(よさみ)池が掘られ,仁徳43年に依網屯倉の名が現れる。これらは大和朝廷がみずから田地を開墾し,穫稲の収納のために置いたもので,開墾地系屯倉と呼ばれている。その管理は茨田屯倉の場合茨田連があたったように,地方豪族が担当した。ついで5世紀末から6世紀前半になると,527年に反乱を起こし翌年討滅された筑紫国造磐井(いわい)の子葛子(くずこ)が,贖罪のために糟屋(かすや)屯倉を献上したように,地方豪族が贖罪のために貢進した屯倉が多く見えるようになる。これらは貢進地系屯倉と呼ばれているが,その管理は貢進した豪族がそのまま行った。これらは地方豪族に貢納物を課する課税地区としての性格の濃いものであったと見られている。この時期の屯倉は東は武蔵,上毛野から西は九州にまで及び,大和朝廷の支配の拡大がうかがえる。しかるに6世紀後半になると,今までと性格の異なった屯倉が置かれるようになった。その典型は欽明朝に吉備に置かれた白猪(しらい)屯倉や児島屯倉である。これらの屯倉には中央から田令(たつかい)が派遣され直接管理を行い,耕作者である田部(たべ)の名籍(丁籍)を作成して掌握するという律令制的人民支配の先駆的形態がとられたが,この新しい屯倉支配は蘇我氏の推進した方式である。またこのころから推古朝に至るまで再び大和,河内,山背で池溝開発を伴う屯倉が設置されたが,これも開墾地系屯倉で,大和朝廷による直接管理が行われたと見られる。屯倉は大和朝廷の経済的基盤としてその発展に大きな役割を果たすとともに,名代(なしろ)・子代(こしろ)として個々の皇族に与えられることもあった。そして単に経済的基盤であるのみならず,地方支配を拡大していく際の政治的軍事的拠点にもなり,536年に博多に置かれた那津(なのつ)官家や,朝鮮半島にあった官家も〈みやけ〉とよまれ,その典型と見られている。なお,一般に上述のように考えられているが,〈みやけ〉の本義は《古事記》に三宅,屯家などと記されているように,大和朝廷の政治的軍事的拠点としての建物そのものであり,倉や田地を伴うのは副次的性格であるとの見解も出され,また設置年代も《古事記》《日本書紀》の記事をそのまま信用することはできず,とりわけ初期の開墾地系屯倉の実在は疑わしく,開墾地系屯倉設置の画期は推古朝にあったとの研究もあり,いまだその実態は十分解明できているとはいいがたい。また646年(大化2)正月の〈大化改新詔〉で屯倉の廃止がうたわれているが,詔自体の信憑性に疑問も出されており,一挙に廃止されたとは考えがたく,律令制への移行過程で徐々に廃止されていったと思われる。
執筆者:館野 和己
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大和政権の支配機構の一つ。6世紀以前に畿内に設定された屯倉を前期屯倉とし,527年磐井(いわい)の乱後におかれた糟屋(かすや)屯倉を初見に,畿外に設定された屯倉を後期屯倉とする見方が有力。前期屯倉は大王によって開発された直轄領的性格をもち,律令制下の畿内官田につながる。この屯倉の成立時期を7世紀初めの推古朝とする見解もある。後期屯倉は国造(くにのみやつこ)の領域内に設定され,大和政権の勢力を浸透させていく機能をはたしたといわれ,吉備白猪(しらい)屯倉での戸籍作成など,律令制的地方支配の前提をなしたとされる。ただし畿外の屯倉が土地の支配をともなったか否かには議論があり,屯倉は政治的な拠点支配であるという見方もある。また屯倉を地域的な支配とみるか否かで,律令制との関係も再検討が必要である。
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律令(りつりょう)国家成立以前にみられた天皇・皇族の領有地をいい、屯家、官家、御宅、三宅とも書く。本来は稲穀を収納する官倉そのものをいったが、のちには、その官倉に納める稲穀の耕地、付属の灌漑(かんがい)施設、および耕作民(田部(たべ))などを含めるものになった。
屯倉は早く5世紀の畿内(きない)に発達したといわれるが、全国的に拡大されたのは6世紀のことである。とくにこの時代になると、吉備(きび)の白猪屯倉(しらいのみやけ)のように、大和(やまと)王権が役人(田令(たづかい))を派遣し、田部の丁籍をつくって直接経営するものが現れた。しかし各地の多くの屯倉は、現地の豪族の管理に一任したタイプのもので、この両者が並存していた。
[原島礼二]
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…古代には,個々の建物は,ヤとかイホ,ムロ,クラなどと呼ばれ,イヘは建物そのものをさす言葉ではなかった。また,家という漢字はイヘとともに〈ヤケ〉という日本語を表記するためにも用いられたが,ヤケは,堀や垣でかこまれ,そのなかにヤ(屋)やクラ(倉)をふくむ一区画の施設をさす言葉で,朝廷に属するミヤケ(屯倉)のほか,オホヤケ(大きいヤケ),ヲヤケ(小さいヤケ)など,さまざまなヤケが重層して存在していたと考えられる。ヤケは農業経営の拠点でもあり,所有や相続の対象となる古代社会の重要な単位であった。…
…《隋書》は1軍尼に10伊尼冀(いなぎ)が属するとも記す。斉一に1:10であったとは考えられないが,多くの国造国に稲置(いなぎ)が管掌している幾つかの屯倉(みやけ)が設定されていたと考えられる。これら屯倉は本来国造領の中から献上される形で設定されたものである。…
※「屯倉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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