日本歴史地名大系 「東瓜破村」の解説 東瓜破村ひがしうりわりむら 大阪府:大阪市平野区東瓜破村[現在地名]平野区瓜破東(うりわりひがし)一―八丁目・瓜破南(うりわりみなみ)二丁目・瓜破(うりわり)一―七丁目河内国丹北郡に属し、長原(ながはら)村の西に位置する。南側を宝永元年(一七〇四)開削の大和川が西流する。北の村境は摂河両国の国界で、村の中央部よりやや西を中高野街道が通り、集落がこれに沿う。集落は本郷・北村があり、北東部には成元(なしもと)(梨元)があった。奈良時代の寺院跡とされる瓜破廃寺跡がある。もと瓜破村として一村であったが、延宝八年(一六八〇)東西に分れた(大阪府全志)。「河内志」に「属邑一」と記される地は字成元とも考えられる(大阪府全志)。瓜破を「六月朔日」とも(河内志)、「振張」とも(大阪府全志)記したという。南北朝時代には合戦の舞台ともなり、「花営三代記」応安四年(一三七一)一一月五日の記事には「河州宇利和利城寄手南方勢引退云々」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by