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平重盛 たいらのしげもり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平重盛
たいらのしげもり

[生]保延4(1138)
[没]治承3(1179).7.29.
平安時代末期の武将。清盛の長子。 12歳で蔵人となって以来,保元・平治の乱で父清盛に従って活躍。長寛1 (1163) 年従三位に叙される。平氏政権の確立とともに官位が累進し,仁安2 (67) 年従二位権大納言,翌年病により官を辞したが,承安1 (71) 年権大納言に復し,治承1 (77) 年正二位内大臣左近衛大将小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。鹿ヶ谷の陰謀事件で (→鹿ヶ谷事件 ) ,後白河法皇を幽閉しようとする父をいさめて,法皇の罪を不問とした。同3年病のため職を辞し,入道した。『平家物語』には,道理をわきまえた人物として描かれている。

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百科事典マイペディアの解説

平重盛【たいらのしげもり】

平安末期の武将。清盛の長男。通称,小松内府(こまつのないふ),灯籠大臣(とうろうのだいじん)。保元・平治(ほうげんへいじ)の乱に功あり,鹿ヶ谷(ししがたに)事件後,清盛が後白河法皇を幽閉しようとした際に諫止(かんし)した《平家物語》の話は有名。
→関連項目藤原成親平家物語平治物語

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平重盛 たいらの-しげもり

1138-1179 平安時代後期の武将。
保延(ほうえん)4年生まれ。平清盛の長男。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱で父にしたがってたたかう。治承(じしょう)元年内大臣となるが,3年7月29日父に先立って病没した。42歳。六波羅小松第の屋敷にちなんで小松内大臣と称された。通称はほかに灯籠大臣。
【格言など】悲しきかな君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば……父の恩たちまちに忘れんとす(「平家物語」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

平重盛

没年:治承3.7.29(1179.9.2)
生年:保延4(1138)
平安末期の武将。清盛の嫡男で母は高階基章の娘。保元の乱(1156)では父に従い源為朝と戦って名を挙げ五位に叙せられ,平治の乱(1159)では源義朝のいる大内裏を攻めて戦功をあげ伊予守に任じられる。その後は平氏の政界進出とともに順調に出世し,長寛1(1163)年には後白河上皇の蓮華王院造営の賞により公卿に列した。このころから後白河上皇の近臣となり,仁安2(1167)年には権大納言に出世するとともに,東国,西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味するもので,その後の重盛は平氏の家督と院の近臣との立場にあって政界に重きをなした。子の資盛が関白藤原基房の車と出会って恥辱を受けた嘉応2(1170)年の事件は『平家物語』に「殿下乗合事件」として有名だが,その報復を行ったのは清盛ではなく『玉葉』によれば重盛であったという。院近臣としての行動をよく物語っている。治承1(1177)年に内大臣に任じられたのちは,身の病弱と妻が鹿ケ谷事件(1177年の平氏追討計画)の張本である藤原成親の妹であったことから顕著な活動はみられず,3年に亡くなった。亡くなる前に中国の医王山に追善のために奥州の金を送った話があるなど,仏法に帰依深かった。死後,後白河法皇は重盛の知行する越前国(福井県)を没収したが,それがその年11月の清盛のクーデタの一因となったという。『平家物語』は重盛を清盛とは対照的に冷静,沈着な理想的な人物として描いており,「文章うるはしうて,心に忠を存じ,才芸すぐれて,詞に徳を兼ね」と絶賛し,その死も平氏の衰退の前兆として位置づけている。「心操甚だ穏便」「武勇時の輩に勝る」という評価が一般的で,『愚管抄』も「心うるはしくて,父入道が謀反心あるとみて,とく死ばや,といひて」と重盛が語ったと記している。<参考文献>五味文彦「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』88巻8号)

(五味文彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

たいらのしげもり【平重盛】

1138‐79(保延4‐治承3)
平安末期の武将。通称小松内府,灯籠大臣。清盛の長男。保元・平治の乱で功をあげ,平氏の隆盛とともに累進し,1167年(仁安2)権大納言,以後,左大将,大納言などを歴任して77年(治承1)従二位内大臣となる。《平家物語》では,鹿ヶ谷事件のさい清盛が後白河法皇を幽閉しようとするのを諫止するなど,性温厚で沈着な人物として描かれる。病弱のため父に先立って死去した。【田中 文英】

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大辞林 第三版の解説

たいらのしげもり【平重盛】

1137~1179) 平安末期の武将。清盛の長子。通称、小松内府・小松殿・灯籠大臣。保元・平治の乱で功をあげ、従二位・内大臣にのぼった。性温厚で、道理を重んじ人望があったが、一門全盛期に病没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平重盛
たいらのしげもり
(1138―1179)

平安後期の武将。清盛(きよもり)の長子。母は高階基章(たかしなもとあき)の女(むすめ)。1150年(久安6)蔵人(くろうど)となる。保元(ほうげん)の乱(1156)では父清盛に従い後白河(ごしらかわ)天皇側として勝利を得た。また平治(へいじ)の乱(1159)には六波羅(ろくはら)を守って活躍した。65年(永万1)参議となる。父が太政大臣(だいじょうだいじん)となった67年(仁安2)権大納言(ごんのだいなごん)に昇り、77年(治承1)左大将、内大臣となった。小松第(こまつだい)(京都市東山(ひがしやま)区)にいたので世に「小松内府(ないふ)」といわれる。同年、後白河法皇の近臣による鹿(しし)ヶ谷(たに)における清盛追討の陰謀が発覚、腹をたてた清盛は法皇を幽閉しようとしたが、重盛がこれを諫止(かんし)した。この事件の主謀者藤原成親(なりちか)の女は、重盛の子惟盛(これもり)の嫁であった。病がちの重盛は、79年(治承3)職を辞し出家、静蓮(じょうれん)(一説に証空)と号した。小松第に法皇の見舞いを受けた1か月余りのちの同年7月29日に没した。『平家物語』は、重盛を道理をわきまえた人物として描いている。父清盛をいさめて、後白河院との表面的対立を抑えてきたが、重盛没後、清盛は法皇を鳥羽(とば)殿に幽閉して院政を停止させた。ここに清盛の軍事的独裁政治が始まり、やがて大衆が離反してゆくのである。[田辺久子]

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世界大百科事典内の平重盛の言及

【忠】より

…《太平記》に登場する楠木正成はその代表として名高い。しかし,親子に発して家を支えるが,忠と対立することも避けがたく,《平家物語》にあらわれる平重盛が,君に忠ならんとすれば孝ならず,親に孝ならんとすれば忠ならずと嘆いて父清盛を諫めた話は,広く知られている。近世の社会では,忠は将軍と大名,大名と家臣にはじまり,すべての主従関係の根幹をなすものとされ,さまざまな道学的な説明のほかに,忠義の美談や,忠言が受け容れられずに苦悩する人間の姿を描いた読物や劇がつぎつぎにあらわれた。…

【髻切】より

…中世では本鳥切とも書いた。《古事談》に,在原業平が二条后を盗み去ろうとして奪い返されたうえに,髻を切られたことが見え,《源平盛衰記》に,平重盛が息子が辱められた意趣返しに,兵をもって摂政藤原基房の車を襲い,基房随従の数人の髻を切ったことが見えるなど,中世の犯罪史にもしばしば現れる特異な犯罪である。烏帽子(えぼし)をもって社会的身分を表す最も有力な外的表徴とした時代にあって,結髪および烏帽子の装着に必須な髻を切断することは,被害者の社会生活を麻痺させるばかりでなく,その人の体面を失わせる凌辱的行為とみなされ,その意味で,女性の髪を切り落とす暴行に比すべき犯罪であったが,これに加えて次の2点が,この犯罪をより特異かつ重大なものとしたと考えられる。…

※「平重盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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