日本歴史地名大系 「柿下村」の解説 柿下村かきしたむら 岐阜県:可児市柿下村[現在地名]可児市柿下・久々利柿下入会(くくりかきしたにゆうかい)北西へ流れる久々利川支流柿下川沿いにある。久々利七郷とともに一括されて久々利両村とよばれ、慶長六年(一六〇一)久々利両村一千七二〇石余は木曾組衆頭に宛行われた(「木曾衆知行目録写」徳川林政史研究所蔵)。正保二年(一六四五)には国絵図作成のために「柿下村」からも村境覚(柿下区有文書)が提出されている。正保郷帳では田二一四石余・畑一八石余、旗本馬場領。御嵩(みたけ)宿(現可児郡御嵩町)の助郷高二六四石(元禄七年「御嶽町助郷帳」野呂文書)。元禄七年(一六九四)頃には羽崎(はざき)村との間で入会をめぐる山論があった(延享元年「山論顛末記」羽崎・二野両区有文書)。 柿下村かきしたむら 福岡県:田川郡香春町柿下村[現在地名]香春町柿下飯岳(いいだけ)山(大坂山、五七三メートル)の南西麓に位置し、前面の扇状地扇端を御祓(みそぎ)川が南東から北西に向かって流れる。西は中津原(なかつばる)村。当村から東の仲津(なかつ)郡大坂(おおさか)村(現犀川町)に越える峠道を大坂といい、現在は県道田川―犀川(さいがわ)線で越えるが、その南方の当地と現赤(あか)村の内田(うちだ)にそれぞれ大坂の地名があり、これが古代からの大坂越であったという(香春町史)。初め中津原村のうちで、元和八年人畜改帳や正保・元禄の両国絵図に村名はみえない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by