日本歴史地名大系 「可児市」の解説 可児市かにし 面積:八四・九一平方キロ県南東部に位置し、可茂(かも)盆地の南半とその周辺丘陵部を占める。東は可児郡御嵩(みたけ)町・土岐市、南は多治見市、西は愛知県犬山市、北は西流する木曾川を隔てて美濃加茂市・加茂郡坂祝(さかほぎ)町と接する。地形は東西に長く南の中央部は大きく切れ込んで胡桃実状をなす。中央部から北の可茂盆地南半部は標高七〇―一一〇メートルで、三段の河岸段丘と西流する可児川とその支流が開析した平坦地である。平坦地の周囲は、西は八曾(はつそう)山塊の土田(どた)(鳩吹)山(三一三・五メートル)を中心とし、南は標高二〇〇メートル前後の丘陵性の山々、東は浅間(せんげん)山(三七二メートル)を中心とする山塊からなる。可児川とその支流の中小河川流域の水田面積は広く、上流部には数多くの溜池が設けられている。市域はかつて可児郡に属した。〔原始・古代〕市域北部の上位段丘の下恵土(しもえど)段丘面の藤田坂(ふじたざか)周辺や低位段丘の北裏(きたうら)遺跡で有舌尖頭器が採集されている。縄文遺跡は木曾川沿いに上流から東野(ひがしの)・川合(かわい)・宮之脇(みやのわき)(川合)、袖裏(そでうら)・宿(しゆく)・北裏(土田)の六ヵ所、可児川沿いでは上流から馬石(ばいし)(中恵土)、上屋敷(かみやしき)・徳野(とくの)(下恵土)、上野(うえの)(坂戸)、北割田(きたわりだ)(土田)の五ヵ所、両川の内部では富士之井(ふじのい)(土田)の計一二ヵ所確認されている。弥生遺跡は北裏・宮之脇・川合、禅台寺山(ぜんだいじやま)(下恵土)、欠の上(かけのうえ)(中恵土)の五ヵ所から住居跡や土器・石器が出土している。享保一八年(一七三三)柿下の番場(かきしたのばんば)からは銅鐸が出土したという。広見の山岸猿塚(ひろみのやまぎしさるづか)遺跡、瀬田の神崎山(せたのかんざきやま)遺跡はともに弥生時代の墳墓と思われる。古墳時代では東美濃での初期古墳の一つ身隠山(みかくしやま)古墳が広見にあり、碧玉製石製品が出土した白山(はくさん)古墳と「長宜子孫」銘の内行花文鏡を出土した御嶽(おんたけ)古墳がある。また前波(まえなみ)の三つ塚と呼称される三基の大型前方後円墳は中恵土の三角縁神獣鏡が出土した野中(のなか)古墳、周湟の一部を残す長塚(ながつか)古墳、西寺山(にしてらやま)古墳である。規模や内容からみてすぐれた古墳が多数分布している。墳丘をもつ古墳は九ブロックに分けられ、第一群が土田・今渡(いまわたり)の木曾川沿いにあり、かつては数百基の大群集墳であった。第二群も木曾川沿いの川合古墳群、第三群は土田の可児川沿いの古墳群、第四群は可児川右岸の坂戸古墳群、第五群が前波古墳群、第六群の広見・羽崎(はざき)古墳群、第七群は瀬田・柿田(かきた)の丘陵北斜面に、第八群は大森(おおもり)川沿いの大森新田に、第九群は南部今(いま)地区の古墳群である。 可児市かにし 2005年5月1日:可児市が可児郡兼山町を編入⇒【兼山町】岐阜県:可児郡⇒【可児市】岐阜県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「可児市」の意味・わかりやすい解説 可児〔市〕かに 岐阜県南部,木曾川と飛騨川の合流点付近にある市。御嵩町を挟んで北方に飛び地があり,南西で愛知県に接する。 1955年広見町,今渡町の2町と土田村,帷子村,春里村,久々利村,平牧村の5村が合体して可児町となり,1982年市制。 2005年飛び地にあたる兼山町を編入。かつて亜炭産出では全国の大半を占めた。陶磁器工業も知られ,東濃窯業地帯の一角をなす。国の史跡の長塚古墳をはじめ東部には古墳が多い。久々利のサクライソウ自生地は国の天然記念物。市域の一部は飛騨木曾川国定公園に属する。中心市街地の広見で名古屋鉄道広見線,JR太多線が交わる。東海環状線自動車道のインターチェンジがあり,国道 21号線,41号線,248号線が通る。面積 87.57km2。人口 9万9968(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by