日本歴史地名大系 「田川郡」の解説
田川郡
たがわぐん
県の中央部東寄りに位置する。郡内北西部に当郡から分立した田川市があり、同市を含むと東は
〔原始・古代〕
田川盆地内の段丘や台地は、約九万年前の阿蘇4火砕流を基層とする堆積層と河川の浸食によって形成された。安定した堆積層が残る場所での旧石器時代遺跡の存在は予測されるが、後世の地形改変が大きいため、層位的調査事例はない。田川市の
前期弥生土器「下伊田式」で著名な田川市の
田川郡
たがわぐん
- 山形県:出羽国
- 田川郡
〔古代〕
天武天皇一一年(六八二)越の蝦夷伊高岐那らが俘人七〇戸をして一郡を建てたいと願出て許されている(「日本書紀」同年四月二二日条)。一郡とは評のことをさし、評名は不明であるが、「大日本地名辞書」はこれをのちの当郡のこととする。またこれを俘郡とみて、当時の越国北限のさらに北、現新潟県岩船郡
「続日本後紀」承和六年(八三九)一〇月一七日条によると、出羽国府より五〇余里離れた当郡の「西浜」に白・黒・青・赤などのいろいろな色の石が申合せたように先端を西に向けて並んでいるのが見つかった。田川郡司からの報告で国司はさっそくことの次第を朝廷に提出して、併せて採取した石鏃も送付したところ、朝廷は陸奥・出羽、ならびに大宰府などの辺境に異変に対する注意を喚起し、神仏に対する奉幣・修法を怠らないようにとの命令を下している。下って仁和元年(八八五)一一月二一日条によれば、同年六月にも「出羽国秋田城中、及飽海郡神宮寺西浜」でも同様のことがあり、「大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃売神」がこのような怪をなしており、祟りはこれらの神社を敬わなかったことにあるから、国司に命じて諸神を祀るように命じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報