久々利村
くくりむら
[現在地名]可児市久々利・久々利柿下入会
北西流する可児川支流久々利川の上流部にある。久々利七郷の一つで、本郷にあたる。「日本書紀」景行天皇四年二月一一日条によれば、景行天皇は美濃行幸の際、八坂入彦皇子の女弟媛を妃に迎えようとして、泳宮に滞在した。この泳宮(区玖利能弥揶)は当地に比定される。「万葉集」巻一三には「ももきね 美濃の国の 高北の 泳の宮に 日向かひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山 なびけと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山」の一首がある。奥十山を当地南端の浅間山とする説がある。中世には久々利庄のうち。
慶長六年(一六〇一)久々利両村一千七二〇石が木曾組衆頭に宛行われた(「木曾衆知行目録写」徳川林政史研究所蔵)。久々利両村の呼称は柿下村を含み、久々利村は本郷と丸山・佐渡・原見・平柴・我田・酒井の七村の総称でもある。正保郷帳では田一千八七石余・畑二八二石余、小松山・草山・雑木がある。明暦覚書では概高一千九七八石余。御嵩宿(現可児郡御嵩町)への助郷高一千三七〇石(元禄七年「御嶽町助郷帳」野呂文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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