栗村庄(読み)くりむらのしよう

日本歴史地名大系 「栗村庄」の解説

栗村庄
くりむらのしよう

古代の栗村郷(和名抄)に立荘されたと考えられる荘園

吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月二日条に、前宰相光能卿の後室比丘尼阿光(領家)の訴えにこたえた源頼朝の下文が載せられている。これにより崇徳院領であったことがわかる。

<資料は省略されています>

その後、弘安六年(一二八三)に栗村東西庄は安嘉門院領の一つにあげられている(「勘仲記」同年一〇月九日条)。この頃すでに栗村東庄・栗村西庄に分れており、嘉元三年(一三〇五)の譲状(亀山院凶事記)にも「栗村東西庄」と書き上げられている。

「園太暦」によれば元弘三年(一三三三)六月には亀山院から後伏見院に譲られた仙洞御料の一つであることが確認されている(同書観応二年一一月二六日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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