日本大百科全書(ニッポニカ) 「仁木頼章」の意味・わかりやすい解説
仁木頼章
にきよりあき
(1299―1359)
南北朝時代の武将。義勝(よしかつ)の子。二郎三郎と称す。周防守(すおうのかみ)、伊賀守、左京大夫(さきょうだいぶ)、兵部大輔(ひょうぶたいふ)を歴任。1335年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)とともに鎌倉に反後醍醐(ごだいご)天皇の兵をあげる。翌36年(延元1・建武3)の尊氏西下の際、命によって丹波(たんば)国高山寺(こうざんじ)城に拠(よ)り、丹波国の鎮定を行う。その後尊氏の上京に応じて丹波、但馬(たじま)の兵をまとめて京都に新田義貞(にったよしさだ)を破る。50年(正平5・観応1)には侍所頭人(さむらいどころとうにん)となり、翌年執事となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)においては尊氏方に従い、足利直義(ただよし)を攻めた。59年(正平14・延文4)10月13日没。
[小林一岳]
『佐藤和彦著『南北朝内乱』(『日本の歴史11』1974・小学館)』