コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

仁木頼章 にきよりあき

5件 の用語解説(仁木頼章の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

仁木頼章
にきよりあき

[生]正安1(1299)
[没]正平14=延文4(1359).10.13.
南北朝時代の武将。祖先は三河仁木村の豪族。義勝の子。義長の兄。官は兵部大輔,のち左京大夫。正平5=観応1 (1350) 年室町幕府侍所頭人となり,翌年高師直が誅されたあと執事に就任,丹波,丹後守護を兼ねた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

仁木頼章【にっきよりあき】

南北朝時代の足利一門の武将。伊賀守,兵部大輔,左京大夫を歴任。丹波・武蔵・丹後などの守護に任じられた。足利尊氏に従い,丹波を本拠に幕府を支えた。1351年将軍尊氏の執事(しつじ)となる。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

仁木頼章 にき-よりあき

1299-1359 鎌倉-南北朝時代の武将。
正安(しょうあん)元年生まれ。仁木義長の兄。足利尊氏にしたがって各地を転戦,建武(けんむ)3=延元元年尊氏西走の際は丹波にとどまって兵をつのり,京都で新田義貞をやぶる。越前(えちぜん)金崎城,河内(かわち)四条畷(しじょうなわて)の戦いなどで軍功をあげる。観応の擾乱(じょうらん)では尊氏にくみし,幕府執事に任じられた。延文4=正平(しょうへい)14年10月13日死去。61歳。通称は二郎三郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

にきよりあき【仁木頼章】

1299‐1359(正安1‐正平14∥延文4)
南北朝時代の足利一門の武将。伊賀守,兵部大輔,左京大夫を歴任。丹波を主として,武蔵,下野,丹後の守護も兼任。元弘の乱中先代の乱では足利尊氏に従って奮戦し,丹波を地盤として幕府を支えた。1351年(正平6∥観応2)将軍尊氏の執事となり,観応の擾乱(じようらん)後の幕政の安定と将軍権力の一元化につとめた。《園太暦》には,〈武家随分之重人〉と記されている。【森 茂暁】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

仁木頼章
にきよりあき
(1299―1359)

南北朝時代の武将。義勝(よしかつ)の子。二郎三郎と称す。周防守(すおうのかみ)、伊賀守、左京大夫(さきょうだいぶ)、兵部大輔(ひょうぶたいふ)を歴任。1335年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)とともに鎌倉に反後醍醐(ごだいご)天皇の兵をあげる。翌36年(延元1・建武3)の尊氏西下の際、命によって丹波(たんば)国高山寺(こうざんじ)城に拠(よ)り、丹波国の鎮定を行う。その後尊氏の上京に応じて丹波、但馬(たじま)の兵をまとめて京都に新田義貞(にったよしさだ)を破る。50年(正平5・観応1)には侍所頭人(さむらいどころとうにん)となり、翌年執事となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)においては尊氏方に従い、足利直義(ただよし)を攻めた。59年(正平14・延文4)10月13日没。[小林一岳]
『佐藤和彦著『南北朝内乱』(『日本の歴史11』1974・小学館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の仁木頼章の言及

【丹波国】より

…南北朝期に入るとおおむね北朝・幕府方の勢力圏となっているが,一宮出雲大神宮の祠官田所氏の家には宮方発給の南朝年号文書が伝えられている。足利尊氏が西下した1336年(延元1∥建武3)2月に幕府は国大将として足利一門の仁木頼章(にきよりあき)を派遣し,同年10月以前に頼章は丹波守護をも兼任している。しかし丹後に隣接する何鹿・天田の北部2郡は丹後守護上杉朝定が分郡守護として支配していた。…

【仁木氏】より

…三河出身の中世武家。〈にっき〉ともいう。足利氏の庶流。足利義康の子義清の孫実国が三河国額田(ぬかた)郡仁木郷(現,愛知県岡崎市仁木)に住し,仁木太郎と称したのに始まる。《吾妻鏡》に〈日記三郎〉〈日記五郎〉の名がみえ,足利氏より将軍へ献ずる馬を引く役目などを務めていることから,鎌倉期には宗家足利氏の被官なみの扱いを受けていたことがわかる。室町幕府では足利一門が守護に補されることが多く,仁木氏からも多数の守護を出した。…

※「仁木頼章」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

仁木頼章の関連キーワード世尊寺伊俊南北朝時代北斉吉野朝時代伊賀兼長覚雄志賀頼房末兼船田経政松浦定

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone