江戸時代の上河内村を中心とした地域に比定される。
室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)には、大堰川西岸の「熊厘村」(熊原村か)の上流地域一帯に桐野牧と記されるが、範域内の村名は記入されていない。ちなみに江戸時代の郷帳類には高屋村が「桐ノ」「桐」と冠して記される。
室町時代には桐野河内郷(村)の地名が史料上に散見するが、早いものとして延元元年(一三三六)の後醍醐天皇綸旨(神護寺文書)に
<資料は省略されています>
とある。少なくとも延元元年以降神護寺(現京都市右京区)領であったことが知れる。