上河内村(読み)かみごうちむら

日本歴史地名大系 「上河内村」の解説

上河内村
かみごうちむら

[現在地名]五日市町上河内

河内こうち(八幡川)の上流域、まどヶ山の南麓にある。北は沼田ぬまたとも(現広島市安佐南区)。村の北から西北部は高い山が占め、東南流する河内川沿いに開けた平地に集落が展開する。「芸藩通志」によると、石内いしうち口和田くちわだ佐方さかた・五日市・下河内・中須賀なかすが利松としまつ高井たかいの各村に飛郷がある。また「古は此辺をすべて河内と称せり、後に河内上下、小深川上下、四村に分る、川の上下にて分つといへり」と記す。

嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に「自大宮御方南脇至于御供屋三十間、未被立分、(中略)石道未進一間、保井田 川内 寺田一間、(中略)已上二十五間、御社領内御支配分」とあり、「川内」とみえるのが当地であると考えられる。「房顕覚書」天文一〇年(一五四一)一二月二二日の記事に「神主ニ相副ラルヽ神領衆、惣公文、政所、大野兵部丞、野坂左衛門大夫、熊野玄蕃允、高井、松丸、西カウチ、坪井、三宅、其外桜尾ノ小近習共取集三四十人(着カ)シ南ノ摂受坊宿ナリ」と記され、厳島社神主藤原氏と大内氏との争いに際し、当地「西カウチ」の神領衆も神主家と行動をともにしている。


上河内村
かみごうちむら

[現在地名]落合町上河内・中河内なかごうう

下河内村の東に位置し、旭川支流の河内こうち川流域に開ける。いずれも上河内を冠したしもなか西谷にしだに東谷上ひがしだにかみ・東谷下の五村に分れていた。西は目木めき村・三崎河原みさきがわら(現久世町)、北はかし東谷ひがしだに余野下よのしも(現同上)など、東は中北上なかぎたかみ村・坪井上つぼいかみ(現久米郡久米町)など。南西流する河内川は上流で二筋の支流となる。東方の支流が東谷川で、この流域が東谷上、この南方が同下、西方の支流西谷川の流域が西谷で、両川の合流地点(宿)から下流域が中、さらに下流域が下となっている。出雲往来が横断し、宿しゆくには宿屋二軒があった(落合町史)

正保郷帳では田高八五二石余・畑高八八二石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高五八一石余・開高七九石余。「作陽誌」では東谷上村は家数四八・人数二三二、東谷下村は家数二九・人数一四九、西谷村は家数三五・人数一七五、中村は家数六三・人数三三八、下村は家数八七・人数一八五、下村東免分は民家なし。


上河内村
かみかわうちむら

[現在地名]鳥海村上川内かみかわうち

笹子じねご川の下流、南東は小川こがわ村、北は伏見ふしみ村に接する。百合茎ゆりぐき八木山やぎやまは笹子川東岸、生出谷地しようでやち平根ひらね提鍋さげなべは西岸に並び、これらの集落を結んで最上もがみ街道が通る。上河内村はこれらの総称である。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)上川内村とあり、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に「上川内 下鍋さげなべ村」として一一八石四斗七升六合とあり、そのうち畑は四石五斗六升一合で「漆ノ木 雑木有 新田有リ」と記される。正保四年の出羽一国絵図には下鍋村一一八石のほか、下鍋のうち田代村が記される。元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒玄蕃同主税知行高辻帳に一一八石四斗七升六合とあり、「昔ハ下鍋村」と記され、下鍋村が上河内村と改められた。


上河内村
かみこうちむら

[現在地名]園部町船岡ふなおか

松尾まつお村の東に位置し、中央部を大堰おおい川が蛇行しながら南流する。村の北半は山地、南半は耕地が広がる。東は世木せきなか(現日吉町)、北は殿田とのだ(現日吉町)、南は高屋たかや村。中世の桐野河内きりのこうち(村)の地。

江戸時代は大堰川右岸の南方にある高屋村を下河内とよび、当村を上河内村とよんだ。園部藩領。幕末の家数は一〇〇、人口四〇五(「口丹波風土記」所引園部藩記録)

当村は園部城下若狭街道とも往還が通じており大堰川舟運の中継港であった。幕末頃には船が五艘あり(南桑田郡誌)、「川上丹波世木ヨリ保津迄川筋絵図」(京都府立総合資料館蔵)には当村の大堰川河岸に「船場」と記され、舟運の盛況を想像させる。


上河内村
かみごうちむら

[現在地名]河内町上河内

河戸こうど村の東南に位置し、村内を北西から南東へ沼田ぬた(戸野川)、南西から北東へ支流の入野にゆうの川が流れ、合流点で中河内村に接する。

応仁二年(一四六八)三月一七日の幕府奉行連署奉書(小早川家文書)に河内村がみえ、久芳くば(現福富町)戸野との郡戸こうどの各郷とともに小早川熙平へ返付されている。大永三年(一五二三)八月一〇日の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に、河内村五貫が平賀知行とあり、まだ上中下に分れておらず、天文(一五三二―五五)頃になって、上河内の知行についての毛利・小早川両氏の書状が平賀家文書にみられる。


上河内村
かみかわちむら

[現在地名]河南町上河内

下河内村の南にあり、東・西・南は水分すいぶん(現千早赤阪村)。山間の渓谷に沿う。西部の山上には上河内(長谷)城跡がある(→下河内村。山間の村なので開発は困難で、吹戸ふかとの山を越えて水越みずこし川の谷へ進むようになり、大永年中(一五二一―二八)に始まると伝える青崩あおげの集落を形成した。ここは大和に至る水越峠越富田林とんだばやし街道の道筋にあたり、大峯参詣が盛んになると青崩の名は広まった(河南町誌)。もとは下河内村とともに同村西隣の馬谷まだに村と一村であったともいう。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二四二石余、幕府領、小物成として山年貢米二石余。領主の変遷は平石ひらいし村に同じ。入会山地での炭焼・木材伐採・猟師や葛根などの薬種掘りなどで収入を得た。


上河内村
かみかわちむら

面積:五七・九六平方キロ

河内郡の北端に位置し、東は塩谷郡氏家うじいえ町、西は今市市・宇都宮市、南は河内町、北は塩谷郡塩谷町と接する。北境から東境を鬼怒川が、西部の山裾を山田やまだ川が、両川の間を西鬼怒川が南流する。東部は平野を形成し、西部は北から羽黒はぐろ山・矢倉やくら山・高舘たかだて山など標高四〇〇メートル以上の山があって山地をなす。東部寄りを東北新幹線が南北に貫き、中央部を東北自動車道が南西部から北東部に横切る。


上河内村
かみがわちむら

[現在地名]門前町上河内・植戸うえど

小滝こだき村の南東、阿岸あぎし川上流の山地に立地。狭い谷間に集落がある。河内村ともいう。中世には櫛比くしひ諸岡もろおか村の内。天文二〇年(一五五一)六月三日の櫛比庄諸岡村名散田指出(興臨院文書)に「河内村半名」とみえ、兵衛・左近・右近が作職をもつ二〇〇刈の田地があり、年貢銭は三貫三五〇文、ほかに小物成として河内村秋酒代一五〇文が賦課されていた。正保郷帳には河内村とみえ、高二七石余、田方一町三反余・畑方四反余。


上河内村
かみこうちむら

[現在地名]海老名市上河内かみごうち

東は杉窪すぎくぼ村、南は中河内村、西は社家しやけ村、北は今里いまさと村と接している。村内を厚木道・大山道が通じている。「風土記稿」によれば中世は恩馬おんま郷に属し、当村と中河内・杉窪の三ヵ村はともに本郷ほんごう村より分村した村である。近世は、初めは幕府直轄領であったが、寛文八年(一六六八)から天和二年(一六八二)の間、上野前橋藩領、その後幕府直轄領に戻ったが、元禄一二年(一六九九)武蔵忍藩領、宝永二年(一七〇五)からは旗本武田領、宝暦一〇年(一七六〇)よりは下総佐倉藩領となり幕末に至った。


上河内村
かみがちむら

[現在地名]水戸市上河内町

水戸城下の北西に位置し、那珂川の左岸にある。東南は中河内村。「和名抄」の那賀なか郡に河内かつち郷がみえ、「新編常陸国誌」の那珂郡河内郷の項に「倭名鈔云、河内、按ズルニ、今ノ上河内、中河内村ナリ、鹿島宮久寿二年神領目録ニ拠ルニ、モト上中下ノ三村アリ、今下村廃シテ上中二村存ス」とある。文禄三年(一五九四)太閤検地によると、田畑屋敷合せて二〇町余の小村であった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「上河内村」とみえる。


上河内村
かみかわちむら

[現在地名]宇目町河内

酒利さかり村の北東、見明みあかり村の北西、酒利岳の南東麓に位置。重岡しげおか村方面から上津川こうづがわ(現本匠村)を経て佐伯さいき城下へ至る道が通る。正保郷帳に上川内村とみえ、田高一八〇石余・畑高五二石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高三〇八石余。


上河内村
うえのかわちむら

[現在地名]椎田町上ノ河内

石堂いしどう村の南に位置し、石堂川および上河内川の上流域の丘陵・山地に立地する。上ノ河内とも記される(元和八年人畜改帳)。中世は角田すだ庄に含まれたとみられ、同庄鎮守角田八幡社(現豊前市)の祭礼に奉仕した九村のうちであった(太宰管内志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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