日本歴史地名大系 「楊井庄」の解説
楊井庄
やないのしよう
近世の柳井村一帯を荘域としたと思われる
荘名の初見は貞永元年(一二三二)八月の周防国司庁宣案(東大寺文書)で、「一、可早任太政大臣入道御時御庁宣旨、被停止与田保地頭押領末松名田事、 右、彼保司代僧幸円去月廿七日解状、件名田者、当保与楊井庄堺相論之時、在庁官人并守護所使共致沙汰、任古堺令糺付国領畢」とある。正平一五年(一三六〇)一〇月の周防楊井本庄四箇里方田数注文案(三浦家文書)に「蓮花王院御料周防国楊井本荘四ケ里方、合田数三十五町六反半内」とあって、蓮華王院領であったことがわかり、併せて康暦二年(一三八〇)の同文書によれば、寺田として長楽寺免・常楽寺免・勝善寺免・妙音寺免・光成念仏免、神田として八幡宮免・疫神免・新熊野免・天満宮免・妙見免などの免田と、人給田として地頭給・公文給・光成給・永正給・行一給・福田給・散士給・梶取給・政所屋敷などがあったことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報