楠瀬幸彦(読み)クスノセ サチヒコ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「楠瀬幸彦」の解説

楠瀬 幸彦
クスノセ サチヒコ


肩書
陸相

生年月日
安政5年3月15日(1858年)

出生地
土佐国(高知県)

学歴
陸士〔明治13年〕卒

経歴
明治12年陸軍少尉。14〜18年フランスに留学。以後、陸大教官、露国駐在公使館付武官、第12師団参謀長、対馬警備隊司令官、由良要塞司令、樺太守備隊司令官・樺太庁長官などを歴任。この間、28年に起きた朝鮮閔妃殺害事件に連座して一時入獄した。40年中将、44年技術審査部長。大正2年6月〜3年3月第1次山本内閣の陸相をつとめた。

没年月日
昭和2年10月13日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

関連語 学歴

20世紀日本人名事典 「楠瀬幸彦」の解説

楠瀬 幸彦
クスノセ サチヒコ

明治・大正期の陸軍中将 陸相。



生年
安政5年3月15日(1858年)

没年
昭和2(1927)年10月13日

出生地
土佐国(高知県)

学歴〔年〕
陸士〔明治13年〕卒

経歴
明治12年陸軍少尉。14〜18年フランスに留学。以後、陸大教官、露国駐在公使館付武官、第12師団参謀長、対馬警備隊司令官、由良要塞司令、樺太守備隊司令官・樺太庁長官などを歴任。この間、28年に起きた朝鮮の閔妃殺害事件に連座して一時入獄した。40年中将、44年技術審査部長。大正2年6月〜3年3月第1次山本内閣の陸相を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「楠瀬幸彦」の解説

楠瀬幸彦

没年:昭和2.10.13(1927)
生年:安政5.3.15(1858.4.28)
明治大正期の陸軍軍人。土佐(高知)藩士楠瀬正志の長男。明治13(1880)年陸軍士官学校卒,砲兵科。14~18年フランスに留学。22年参謀本部第1局員。27年臨時京城公使館付となり,翌年閔妃暗殺事件に関与したとして入獄。29年軍法会議で無罪となる。大阪砲兵工廠提理などを経て,日露戦争(1904~05)時には第2軍兵站監,次いで第4軍砲兵部長。戦後は樺太庁長官などを務め,40年に中将に進む。地方勤務が多かったのは,長州閥批判したためだという。大正2(1913)~3年の山本権兵衛内閣ではその姿勢が評価されて陸軍大臣を務めた。<参考文献>鷺城学人『時代勢力の批判』

(鈴木淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠瀬幸彦」の解説

楠瀬幸彦 くすのせ-さちひこ

1858-1927 明治-大正時代の軍人。
安政5年3月15日生まれ。明治27年臨時京城公使館付。28年朝鮮の閔妃(ミンビ)暗殺事件関与の疑いで入獄し,翌年無罪。40年樺太守備隊司令官兼樺太庁長官。陸軍中将。大正2年第1次山本内閣の陸相となる。昭和2年10月13日死去。70歳。土佐(高知県)出身。陸軍士官学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「楠瀬幸彦」の解説

楠瀬 幸彦 (くすのせ さちひこ)

生年月日:1858年3月15日
明治時代;大正時代の陸軍軍人。陸軍大臣
1927年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の楠瀬幸彦の言及

【樺太庁】より

…所在地は08年以来豊原(現,ユジノ・サハリンスク)。長官は勅任官で,内務大臣(拓務省設置後は拓務大臣)の指揮監督を受けて法律命令を執行し,部内行政事務を管理するものとされ,18年の官制改正までは樺太守備隊司令官の兼任が認められていたが,初代の楠瀬幸彦(陸軍少将)のほかは代々文官で,内務官僚の就任を常とした。長官官房,内務部,農林部,警察部の内局と,支庁,警察署,林務署,鉄道事務所,郵便局,医院,中央試験所などの所属官署を持ち,樺太の開発を推進した。…

※「楠瀬幸彦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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