櫟庄(読み)いちいのしよう(いちいもとのしよう)

日本歴史地名大系 「櫟庄」の解説

櫟庄(櫟本庄)
いちいのしよう(いちいもとのしよう)

年月未詳の東大寺三綱陳状(東大寺文書)によると、「本願聖皇」(聖武天皇)の勅施入にはじまる官省符荘であるという。大治五年(一一三〇)の東大寺諸荘之書并絵図等目録(東大寺文書)の櫟庄の項では「池図一禎字桜田、神護景雲年中」とあり、奈良時代から開発が進み、溜池もつくられていたことをうかがいうる。

保延三年(一一三七)の櫟荘検田帳(石崎直矢氏蔵文書)によると、同庄の田地は「合肆拾壱町肆段」でその条里(括弧内は坪数)は、添上郡五条三里(五)・四里(一八)・五里(二)、六条三里(九)・四里(三)・五里(二)池下いけのした・池中・池上となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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