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正親町三条実愛 おおぎまちさんじょう さねなる

美術人名辞典の解説

正親町三条実愛

元勲。正親町三条実義の子。権中納言・権大納言となる。維新後に内国事務総督となり、刑部卿となる。のち嵯峨氏と称した。彼の日記『嵯峨実愛日記』は維新史の重要な文献とされた。明治42年(1909)歿、90才。

出典 (株)思文閣美術人名辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

正親町三条実愛 おおぎまちさんじょう-さねなる

1821*-1909 幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。
文政3年12月5日生まれ。権(ごんの)大納言となり議奏,国事御用掛を歴任。慶応2年辞任。翌年議奏に復し,討幕の密勅を鹿児島,萩(はぎ)両藩にわたす。4年内国事務総督,明治2年刑部卿となる。のち嵯峨(さが)と改姓。明治42年10月20日死去。90歳。日記に「嵯峨実愛日記」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

正親町三条実愛

没年:明治42.10.20(1909)
生年:文政3.12.5(1821.1.8)
幕末の公家,宮中政治家。父は実義。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参画,翌年10日間の慎の処分を受ける。桜田門外の変ののち40歳の万延1(1860)年6月,議奏に任命され朝議決定の構成員となった。皇妹和宮と将軍徳川家茂の婚儀にかかわり,長井雅楽を中心とする長州藩,次いで島津久光・薩摩藩の公武合体運動を支持。尊王攘夷派の志士と攘夷派の廷臣の攻撃にさらされ,文久3(1863)年1月辞職。8月18日の政変ののち,同年12月復職。以来,島津久光,松平慶永の支援を受けながら近衛忠房,晃親王と提携して,二条斉敬,朝彦親王ら親幕派朝廷首脳部に対抗した。朝廷首脳部の更迭を求めた中御門経之ら22廷臣の列参奏上を支持し,慶応2(1866)年10月議奏を罷免され遠慮・閉門の処分を受けた。翌年3月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除,5月復職。岩倉具視,中山忠能,中御門経之と共に王政復古を画策,10月14日討幕密勅を大久保利通,広沢真臣の薩長両藩士に手渡した。王政復古の政変で三職制が新設されると議定に就任。以来,内国事務総督,輔弼,刑法官知事,刑部卿を歴任。明治2(1869)年9月,王政復古の功により賞典禄1000石を永世下賜された。同3年12月,姓を嵯峨と改めた。同4年7月麝香間祗候,90歳で没した。<参考文献>『嵯峨実愛日記』

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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