日本大百科全書(ニッポニカ) 「シェーンベルク」の意味・わかりやすい解説
シェーンベルク
しぇーんべるく
Arnold Schönberg
(1874―1951)
オーストリアの作曲家。弟子のベルクおよびウェーベルンとともに「新ウィーン楽派」「第二次ウィーン楽派」を形成し、とくに「十二音音楽」という新しい技法による音楽を創造して、20世紀の芸術音楽の展開に決定的な影響を与えた。
1874年9月13日、ウィーンのユダヤ人商人の家庭に生まれる。早くから音楽に興味をもち、9歳のときにまったく独学で最初の作曲を試みた。91~95年、銀行に勤めるかたわら、アマチュア・オーケストラのチェロ奏者として活躍し、そのオーケストラの指揮者ツェムリンスキーAlexander von Zemlinsky(1872―1942)に数か月対位法を学んだ。この数か月のレッスンを唯一の例外として、彼は独学で本格的な創作活動を開始し、ブラームスやワーグナーなど後期ロマン派音楽の圧倒的な影響を受けながら、リヒャルト・デーメルの世紀末的題材によるテキストを新しい対位法の感覚で処理した『浄(きよ)められた夜』(1899)を発表した。その後一時ベルリンに居を移し、文芸キャバレーの指揮者や音楽学校の教師を勤めながら作曲活動を続け、弦楽四重奏曲第1番(1905)、室内交響曲(1906)などで、表現主義的な無調音楽という独特の音楽様式を確立していった。初期のスタイルの代表作は、アリベール・ジローの詩による『月に憑(つ)かれたピエロ』(1912)である。ここではソプラノと5人の室内楽奏者が、歌と語りの中間の「シュプレッヒゲザング」という新しい声の技法と、長調、短調など調性の中心音を感じさせない無調の技法によって、「夜」と「血」のイメージを描き出し、この作品によってシェーンベルクの作曲家としての名声は決定的なものになった。
『月に憑かれたピエロ』以後は、彼自身のことばによると、「調性という手段に頼らずに、堅牢(けんろう)な形式と統一性を獲得することができるか」という問題を追求し、五つのピアノ曲(1920)、セレナーデ(1923)、ピアノ組曲(1923)の三つの作品で、「相互の間にのみ関連づけられる12の音による作曲技法」、すなわち「十二音技法」をつくりだした。この新しい作曲技法は、バッハ以来の西洋音楽の合理的な音楽語法を組み替えたもので、シェーンベルクはこの音楽の新しい「知の体系」によって、精緻(せいち)な音の秩序をもつ傑作『オーケストラのための変奏曲』(1928)を書いた。ヒトラーに追われて1933年アメリカに渡った彼は、ロサンゼルスに居を定め、36年以降カリフォルニア大学で教授活動のかたわら作曲を続け、41年にはアメリカの市民権を得ている。この時代の作品には『ナポレオンへのオード』(1942)や『ワルシャワの生き残り』(1947)など、ナチズムに対する激しい抗議の音楽がある。51年7月13日ロサンゼルスで没した。
[船山 隆]
『W・ライヒ著、松原茂他訳『シェーンベルク評伝』(1974・音楽之友社)』▽『R・レイボヴィッツ著、船山隆訳『シェーンベルク』(1974・白水社)』