武田斐三郎(読み)たけだあやさぶろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「武田斐三郎」の意味・わかりやすい解説

武田斐三郎
たけだあやさぶろう
(1827―1880)

幕末・明治期の造兵築城家、兵学家。伊予(いよ)国(愛媛県)大洲(おおず)の人。名は斐、斐三郎は通称、のち成章と称す。適塾や伊東玄朴(げんぼく)の塾で蘭学(らんがく)を修め、一方、英語・フランス語も学んだ。1853年(嘉永6)ロシア使節の来航に際し、露使応接使に従って長崎に赴く。翌1854年露西亜(ロシア)船用取扱となり松前に出張、箱館奉行所(はこだてぶぎょうしょ)設置でその配下となる。やがて同奉行所諸術調所教役となり、その創設に尽力反射炉砲台五稜郭(ごりょうかく)の設計建設にあたり、1861年には黒竜江を遡行(そこう)、ニコライエフスクに至る。1864年開成所教授職並となって江戸に帰った。明治維新後、兵部省に出仕、兵学寮・士官学校の教授、長官を務めるなど草創期に大きく貢献した。

[菊池俊彦]

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朝日日本歴史人物事典 「武田斐三郎」の解説

武田斐三郎

没年:明治13.1.28(1880)
生年:文政10.9.15(1827.11.4)
幕末明治期の洋学者。名は成章,斐三郎は通称,号は竹塘。伊予大洲藩士武田敬忠の次男。幼時藩校明倫堂に学ぶ。嘉永1(1848)年緒方洪庵の蘭学塾で医学修業中に西洋兵術に関心が移り,3年江戸に出て佐久間象山の西洋兵学塾で砲術,築城,航海術を身に付け,6年象山の推挙で幕府に出仕,プチャーチンとの交渉に向かう川路聖謨らの随員として長崎に出張,翌年聖謨の推挙で蝦夷地視察に向かう堀利煕の随員となり樺太まで視察。その後箱館奉行が置かれると,外国人応接および国防の要員として箱館詰となる。安政3(1856)年には,箱館港防備のための弁天崎台場,翌年からは箱館奉行所としての五稜郭の設計監督を務める傍ら,語学,航海,築城などを教える諸術調所を開き,箱館奉行所御用船亀田丸を指揮してロシアのニコラエフスクまで交易に出掛けるなど実践を重んじた教育を行う。元治1(1864)年開成所教授に転じ,のち砲兵頭,ナポレオン砲の国産化にも成功した。明治4年兵部省に出仕,のち兵学寮の兵学大教授となり兵学寮幼年学校長を兼務。<参考文献>白山友正『武田斐三郎伝』,高須賀康生「武田成章」(『愛媛の先覚者』2)

(紺野哲也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の武田斐三郎の言及

【五稜郭】より

…江戸幕府が蝦夷地(えぞち)支配と北辺防備のために,箱館奉行所として計画した日本最初の洋式城郭。伊予大洲藩出身の蘭学者,諸術調所教授武田斐三郎(あやさぶろう)がフランス築城書のオランダ語訳本を参考にフランス軍人の指導のもとで設計,1857年(安政4)着工,64年(元治1)に竣工した。その築城法は,大砲の発達に伴って16世紀以降フランスを中心にヨーロッパで流行したもので,平地に星形に濠を掘り,その土で土塁を築き,五つの突角部(稜堡)に砲座を置く。…

【武田成章】より

…幕末から明治初年の開明的兵学者。名は斐,通称斐三郎(あやさぶろう)。伊予大洲に生まれ,緒方洪庵門,伊東玄朴門等で苦学。洋学に通じ,のち兵学に関心を移し佐久間象山とも親交,砲台や溶鉱炉の技術に明るかった。1854年(安政1)より松前藩にて出仕,五稜郭の築城に尽力し,また再三北海沿海を航海し北辺防備のための事情視察に努めた。その後幕府より開成所教授職扱,銃砲鋳造所主任,砲兵頭等に抜擢(ばつてき)され,武官として活躍。…

※「武田斐三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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