緒方洪庵(おがたこうあん)の蘭学(らんがく)塾。備中(びっちゅう)(岡山県)足守(あしもり)藩士の三男に生まれた緒方洪庵は、大坂の蘭医中天游(なかてんゆう)、江戸の坪井信道(しんどう)に学び、さらに長崎遊学後、1838年(天保9)大坂・瓦(かわら)町に開業し、蘭学も教え始めた。その学塾を適々斎塾(適塾)といい、1843年船場過書(せんばかしょ)町に移転後大いに発展し、全国から多数の門人が参集し、その数は3000人を超えたという。門人には、村田蔵六(大村益次郎(ますじろう))、武田斐三郎(あやさぶろう)、佐野栄寿(常民(つねたみ))、菊池(箕作(みつくり))秋坪(しゅうへい)、橋本左内(さない)、大鳥圭介(けいすけ)、長与専斎(ながよせんさい)、福沢諭吉、池田謙斎(けんさい)らがある。幕末期の塾の教育の実状は「元来適塾は医家の塾とはいえ、其(その)実蘭書解説の研究所にて、諸生には医師に限らず……凡(およ)そ当時蘭学を志す程の人は皆此(この)塾に入りて其仕度をなす」(長与専斎『松香私志』)というごとく、技術・知識の学としての蘭学を学ぶという傾向が強くなった。建物は国の重要文化財、また「緒方洪庵旧宅および塾」として国史跡指定を受け現存する(大阪市中央区北浜三丁目)。
[沼田 哲]
『緒方富雄著『緒方洪庵伝』(1942・岩波書店)』▽『緒方富雄編著『緒方洪庵適々斎塾姓名録』(1967・財団法人学校教育研究所)』▽『沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』
適々塾・適塾とも。緒方洪庵(こうあん)が1838年(天保9)に開いた蘭学塾。塾名は洪庵の号による。はじめ大坂瓦町にあり,門人の増加により43年過書(かしょ)町(現,大阪市中央区北浜3丁目)に移転。ここで蘭書会読や医学・軍事科学などの勉学が行われ,洪庵が62年(文久2)江戸に移るまでに全国から612人(「姓名録」署名者。うち1人は再入塾)が入塾した。塾生は塾頭の総括のもと成績で等級にわけられ,蘭日辞書「ドゥーフハルマ」を奪いあうなど昇級競争は激しかった。これらの塾生活は福沢諭吉「福翁自伝」や長与専斎「松香私志」に詳しい。福沢・長与のほか,大村益次郎・佐野常民・橋本左内ら近代日本の建設者を輩出した。洪庵旧宅および塾は国史跡。
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…しかしその長は,やはり多紀家のものがあたった。蘭方系としては,江戸で伊東玄朴が開設した象先堂(1833),大坂で緒方洪庵による適々斎塾(1838),京都の新宮涼庭による順正書院(1839),さらに佐倉の佐藤泰然の順天堂(1843)などが知られている。 これらの背景には,江戸幕府政権のイデオロギー確立のための文教政策としての儒学センター昌平坂学問所の設置と,それにならっての各地での藩校の設置がある。…
…塾は45年に過書町(現,大阪市中央区北浜3丁目。この建物は現存し史跡・重要文化財)に移るが,適塾(適々塾,適々斎塾)と称し,各地から入門者があり,姓名録に記名のあるのが612人,実際にはそれよりかなり多数の者がいたとされ,厳しさのなかに独特の教育が行われた。塾からは,大村益次郎,福沢諭吉,佐野常民,橋本左内,大鳥圭介,長与専斎,高松凌雲,池田謙斎らを輩出した。…
…幕末の蘭医緒方洪庵の家塾。正式には適々斎塾といい,洪庵の号によったもの。1838年(天保9)洪庵は大坂の瓦町で医業を営むとともに,私塾を経営して子弟の教育にあたった。…
※「適々斎塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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