愛媛県西部の市。2005年1月旧大洲市と長浜(ながはま)町,肱川(ひじかわ)町,河辺(かわべ)村が合体して成立した。人口4万7157(2010)。
大洲市中西部の旧市。肱川中流域の大洲盆地を中心とする。1954年大洲町と平野,南久米,菅田,大川,新谷,柳沢,三善,粟津,上須戒の9村が合体して市制。人口3万9011(2000)。城下町の形成される以前は道路交通と河川交通の交差点に発達した集落であった。1617年(元和3)以来の加藤氏6万石の城下町で,大洲城は肱川南岸の要害の地にあり,城下町はその西・南部に展開していた。大正年間以降の市街地は肱川の北岸肱北(こうほく)地区に展開したが,これは1913年肱川架橋が完成したことや,18年大洲~長浜間に開通した愛媛鉄道(現,JR予讃線)の駅が肱北の若宮地区に設置されたことによる。松山自動車道のインターチェンジがある。市域の大部分は田園地帯であり,野菜栽培,養蚕業,シイタケ栽培,養豚業などが盛んである。大洲半紙を特産する。菅田地区はかつて良質な伊予糸の産地として知られた。明治・大正年間の肱川は舟運といかだ流しで知られ,現在は観光鵜飼いが催される。陽明学の大家中江藤樹の邸宅跡,臥竜山荘などがある。
執筆者:篠原 重則
伊予国の城下町。近世初期までは大津と書かれ,明暦・万治年間(1655-61)に大洲と改められた。豊臣秀吉の四国征伐後,池田高祐,藤堂高虎,脇坂安治の城下町となった。藤堂・脇坂両氏の時代,慶長年間(1596-1615)に近世城郭としての大津城が,大洲盆地を貫流する肱川南岸の小丘陵に建設されたという。同時に城下町も整備され,城の西・南部に1605年に家中町が造成され始め,同年に町方の塩屋町もできている。1617年(元和3)加藤貞泰が6万石の領主として入部し,廃藩に及んだ。43年(寛永20)には本町,中町,裏町の3町とそれらの通りに塩屋町,上横丁,下横丁の3筋があり,家数約400であった。幕末には塩屋町は志保町と改められ,その東隣に比地町が形成された。町方には5人の町年寄が置かれ,町民は十人組に組織された。肱川北部には支藩新谷(にいや)藩陣屋町,中村,柚ノ木(ゆのき),八多喜(はたき)などの在町が栄えた。
執筆者:三好 昌文
大洲市東端の旧村。旧喜多郡所属。人口1274(2000)。肱川の支流河辺川上流域に位置し,四国山地に属する山地で占められた典型的な峡谷型山村である。平地に乏しく,40集落は山腹に散在する。1951年肱川村から分離して成立。農林業が基幹産業で,栗,シイタケ,タバコの産が多く,養蚕,和牛飼育も行われる。河辺川の渓谷はハイキング,釣りに適し,清流では淡水魚の養殖が行われる。
大洲市北西部の旧町。旧喜多郡所属。人口9266(2000)。伊予灘に柱ぐ肱川の河口部に位置し,海岸は断層崖が迫り低地に乏しい。肱川流域は霧が多く,河口近くでは春秋に〈アラシ〉〈アラセ〉とよぶ寒冷多湿の風が伊予灘に向かって吹く。河口にある長浜は港町で,近世,大洲藩は船奉行所,河口番所などを置いていた。いかだで下ろした肱川流域の木材は長浜から各地に積み出された。長浜の北方14km,伊予灘に浮かぶ青島は周囲4kmの小島で,大洲藩の馬の放牧場であった。島は江戸初期に播磨から漁場開発のために移住した漁民によって開拓され,イワシの好漁場である。町域南端,八幡浜市との境の出石(いずし)山(金山。812m)は瀬戸内海国立公園に含まれ,その頂上に出石(しゆつせき)寺がある。藤堂高虎が朝鮮から持ち帰り寄進した銅鐘(重要文化財)を蔵する。肱川中流の白滝は景勝地として知られる。JR予讃線,国道378号線が通じる。
大洲市南東部の旧町。旧喜多郡所属。人口3211(2000)。四国山地の山間にあり,中央を南東から北西へ,V字谷を形成して肱川が貫流,同川とその支流沿いにわずかに低地がある。コウゾ,ミツマタ,ハゼノキなどを栽培して製紙,製蠟が行われてきたが,現在も農林業が主体で,シイタケ,栗の産が多く,畜産も行われる。肱川は昭和の初めまで当地域の交通の動脈であったが,県道の開通によって陸運に切りかえられた。1959年肱川本流に鹿野川ダムが完成し,ダム湖周辺は四季の景観にもめぐまれ県立自然公園になっている。近くの小藪(おやぶ)川の渓谷には鉱泉の小藪温泉がある。大谷(おおたに)地区には幕末以来の大谷文楽が伝わる。肱川に沿って国道197号線が通じる。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛媛県西部、肱(ひじ)川中流の大洲盆地の中心都市。1954年(昭和29)に大洲町と平野、南久米(くめ)、菅田(すげた)、大川、柳沢、新谷(にいや)、三善(みよし)、粟津(あわづ)、上須戒(かみすがい)の9村が合併して市制施行。2005年(平成17)長浜、肱川(ひじかわ)の2町と河辺村(かわべむら)を合併。この合併により、肱川の下流・河口部、上流山間部も市域に加わった。JR予讃(よさん)線、内子線、国道56号、197号、378号、441号が通じ、松山自動車道の大洲と大洲北只などのインターチェンジが設置されている。中心市街の大洲は肱川左岸の旧城下町地区と右岸の新市街からなり、渡津(としん)集落でもある。1617年(元和3)以来加藤氏6万石の城下となり、1658年(万治1)ごろ大津を大洲と改めた。東部の新谷を分家領1万石とし、ここに陣屋町を建設した。大洲盆地は穀倉地帯で米作のほか野菜など近郊農業が発達しているが、肱川はしばしば氾濫(はんらん)し、水没することが多かった。肱川は鉄道開通以前は瀬戸内海に通じる水運として利用された。伊予灘(なだ)に面する長浜は大洲藩の外港として、船番所、奉行(ぶぎょう)所などが設けられた。大洲藩時代には製紙業が専売制とされ、大洲半紙の生産を奨励、明治に入って養蚕、製糸が盛んとなった。養蚕は肱川沿岸や台地などのクワ栽培により、現在でも続いている。大洲和紙は伝統的工芸品に指定されている。長浜地区は伊予灘漁業の基地として発展、臨海工業地区もつくられている。一方、山間部の肱川地区、河辺地区では、シイタケ、タバコ、クリ栽培などが行われている。
江戸初期、中江藤樹(とうじゅ)が藩士として27歳まで大洲に過ごし、多くの影響を与え、陽明学を藩是とするに至った。また江戸末期には常磐井厳戈(ときわいかしほこ)が古学(こがく)堂を開き国学、洋学によって多くの門弟を育てた。旧城下町の町並みには昔のおもかげをとどめる所がある。2004年に大洲城天守閣が復原された。大洲城の櫓(やぐら)4棟、瑞竜(ずいりゅう)寺の木造十一面観音立像、如法寺の仏殿などは国の重要文化財。盆地の中の冨士山(とみすやま)の頂上には巨石遺跡の祭壇石がある。肱川の鵜飼(うかい)は夏の風物詩。そのほか、名刹(めいさつ)金山出石(きんざんしゅっせき)寺、景勝地臥龍淵(がりゅうぶち)にある臥龍山荘などがある。面積432.12平方キロメートル、人口4万0575(2020)。
[横山昭市]
『『大洲市誌』(1972・大洲市)』▽『『大洲市誌 増補改訂』(1996・大洲市)』
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