比企朝宗(読み)ひき ともむね

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「比企朝宗」の解説

比企朝宗 ひき-ともむね

?-? 平安後期-鎌倉時代武将
比企尼(ひきあま)の子。寿永3年(1184)北陸道勧農使となる。同年平氏追討のため西海におもむく。文治(ぶんじ)2年源頼朝の使者として京都にいく。同年一条能保(よしやす)の命で源義経の家臣堀弥太郎らを興福寺で捕らえる。奥州攻めにもしたがった。通称は藤内。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の比企朝宗の言及

【勧農使】より

…これとは別に,源平内乱期には国衙にも勧農使がおかれた例があり,1183年(寿永2)には平氏政権下の安芸国で,在庁官人の公廨給田の割りかえを,勧農使が田所を指揮して管轄した例がみられる。一方,源氏の側でも84年(元暦1)に源義仲を滅ぼした源頼朝は,それまで義仲が支配していた北陸道諸国に対して,比企朝宗を鎌倉殿勧農使として派遣している。比企朝宗は鎌倉幕府の守護制度が整備されるなかで,北陸道諸国の守護として活躍するようになるところからみて,この鎌倉殿勧農使がある意味では鎌倉幕府の守護制度の源流をなすとも考えられる。…

※「比企朝宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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