長崎県中部,西彼杵(にしそのぎ)半島とその周辺の島々からなる市。2005年4月大島(おおしま),大瀬戸(おおせと),旧西海,崎戸(さきと),西彼(せいひ)の5町が合体して成立した。人口3万1176(2010)。
西海市北西端の旧町。旧西彼杵郡所属。人口6055(2000)。西彼杵半島の西4kmの海上に浮かぶ大島と半島との間にある寺島からなる。南西にある旧崎戸町とは1952年に完成した中戸橋によって,東の旧西海町とは寺島を挟んで寺島大橋(88年完成)と大島大橋(99年完成の有料道路)によって結ばれている。中央に百合岳(194m)があり,西側斜面は畑地で,東部には馬込港,住宅団地,造船所などがある。江戸時代初期に移住民が定着し,1935年に炭鉱の採掘が始まって人口が急増した。第2次世界大戦後も大島鉱業所の発展とともに炭鉱町として栄えたが,石炭産業崩壊によって大島炭田は70年に閉山,多くの人が離島し,人口はピーク時の約1万8000人から激減した。工場誘致が進められ,75年に大島造船所が完成し,造船業が町の基幹産業となっている。対岸の面高(旧西海町)や佐世保との間にフェリーが就航している。
西海市南部の旧町。旧西彼杵郡所属。人口8050(2000)。西彼杵半島西岸にあり,五島灘に面する。半島の中央部を南北に連なる山地が急斜面をなして海岸に迫り,平地に乏しい。中心地の瀬戸は古くからの要港である。沖合の松島では明治以後炭鉱が開発され,松島海底炭田として一時は活況を呈したが,1934年坑内への海水浸入によって閉鎖された。77年最大出力100万kW規模の松島火力発電所(80年完成)の建設が始まると関連企業の雇用が増加した。基幹産業は農林水産業で,特に漁業が盛んであり,古くは捕鯨も行われた。農業ではミカンのほかビワの栽培が年々ふえている。
西海市北部の旧町。旧西彼杵郡所属。人口9001(2000)。西彼杵半島の最北端に位置し,東は佐世保湾,西は呼子ノ瀬戸に面する。町の大半は第三紀層の準平原面上に広がる玄武岩台地で,段々畑が続く。佐世保湾に臨む横瀬浦は,1562年(永禄5)に領主大村純忠によって開港され,ポルトガルとの交易地として栄えたが,翌年の反純忠派家臣団のクーデタで町や教会は焼打ちにあい,衰退した。主産業は農業で,ミカン栽培,畜産が盛んである。中央部の虚空蔵山(307m)は台地上に噴出した臼状火山で眺望がよく,旧陸軍の砲台跡がある。南部に七釜(ななつがま)鍾乳洞(天)がある。
西海市西端の旧町。旧西彼杵郡所属。人口2309(2000)。西彼杵半島と五島列島の間に点在する四つの島と大小七つの岩礁で構成される。行政の中心である崎戸の所在する蠣ノ浦(かきのうら)島は長崎市の北西約50km,佐世保市の南西約30kmの海上に位置し,蠣ノ浦島から西方約20km隔てて江ノ島,さらに西方に平(ひら)島がある。人口1000人程度の漁村であったが,1907年蠣ノ浦島の福浦で石炭採掘が始まると海底炭田の町として発展し,最盛期には2万6000人の人口を数えた。しかし68年炭鉱が閉山して急激に過疎化が進んだ。現在は漁業が主産業で,九州で唯一の製塩工場もある。蠣ノ浦島と旧大島町の間の中戸瀬戸には中戸大橋がかかる。
西海市東部の旧町。旧西彼杵郡所属。1969年町制。人口1万9873(2000)。西彼杵半島の東端にあり,丘陵が起伏し平地は少ない。大村湾に臨む海岸線は屈曲に富み,紺碧の海に浮かぶ島々と山頂まで耕された段々畑の景観は美しく,大村湾県立自然公園に指定されている。主産業は農業で,ミカン,スイカ,米,バレイショの栽培,肉牛肥育,養豚が行われ,近年施設園芸が増加している。佐世保市と結ぶ西海橋は,1955年に完成した固定アーチ橋で,その下の針尾(伊ノ浦)瀬戸は日本三大急潮の一つとして多くの観光客を集める。2006年。有料道路,西海パールラインが開通した。真珠養殖発祥の地であるが,現在は行われていない。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
長崎県の西彼杵半島(にしそのぎはんとう)北端に位置する市。2005年(平成17)西彼杵郡西彼町(せいひちょう)、西海町(さいかいちょう)、大島町、崎戸町(さきとちょう)、大瀬戸町(おおせとちょう)が合併、市制施行して成立。北は佐世保湾、針尾(はりお)瀬戸を挟んで佐世保市に対し、西は五島灘(ごとうなだ)、東は大村湾に囲まれ、南は長崎市に接する。大島、蛎ノ浦(かきのうら)島のほか、五島灘に点在する島々を含む。海岸部のほとんどは大小の入江や崎・鼻が入り組み、沖の島々をあわせて多様な景観を呈し、市域には落日が美しいスポットも多い。西海国立公園、西彼杵半島県立公園、大村湾県立公園、県立西海橋公園の指定域で、七釜鍾乳洞(ななつがましょうにゅうどう)は国指定天然記念物。西部の海岸沿いを国道202号が走り、針尾瀬戸に架かる西海橋を渡って佐世保市に通じる。同国道から分岐する県道は、大島大橋、寺島(てらしま)大橋、中戸(なかと)大橋を経て崎戸島に至る。また、大村湾沿いの東海岸は国道206号が通る。
西彼町地区の亀(かめ)岳は黒曜石の原産地として知られ、小迎遺跡(こむかえいせき)(西彼町地区)からは旧石器時代や縄文時代の遺物が発見されている。平安末期から室町期にかけて当地方では独特の滑石製の石鍋が作られ、ホゲット石鍋製作遺跡(国指定史跡)をはじめ数多くの石鍋製作所跡がある。佐世保湾に臨む横瀬浦(よこぜうら)は、1562年(永禄5)大村純忠が開港して、ポルトガルと貿易を始めた港として著名。純忠の統治時代、地内の寺院などは破却され、キリスト教の布教が推進されたという。西海町中浦(なかうら)地区は、天正遣欧使節の一人、中浦ジュリアンの出生地。江戸時代は大村藩領で推移し、蛎ノ浦島、江島(えのしま)は捕鯨の島であった。明治時代末期以降、蛎ノ浦島は石炭の島として栄えたが、昭和40年代に閉山し、過疎化が進んだ。同年代に崎戸製塩工場(現、ダイヤソルト)が開設され基幹産業となる。なお、谷口雅春(まさはる)が開設した生長の家の総本山龍宮住吉本宮や拝殿ほか諸施設が国道206号沿いに並ぶ。大村湾岸や五島灘沿岸の漁港では沿岸漁業でタコ、ウニ、海藻類が漁獲されたが、近年はアジ、タイなどの養殖漁業が盛んとなった。農産物ではサツマイモ、ジャガイモ、米、スイカ、トマト、タマネギ、柑橘類などが栽培されている。面積241.60平方キロメートル、人口2万6275(2020)。
[編集部]
愛媛県最南端、南宇和郡(みなみうわぐん)にあった旧町名(西海町(ちょう))。現在は愛南町(あいなんちょう)の南西部を占める一地域。1952年(昭和27)西外海(にしそとうみ)村が町制施行して改称。2004年(平成16)内海(うちうみ)村、御荘(みしょう)町、城辺(じょうへん)町、一本松(いっぽんまつ)町と合併、愛南町となる。旧町域は、宇和海に臨む西海半島と横島、鹿島(かしま)などからなり、県道320号が通じる。宇和島藩時代には外海浦とよばれ、イワシ網漁業が盛んであり、また九州や上方(かみがた)との交易の基地でもあった。明治から大正にかけてはアラフラ海の木曜(もくよう)島にカツオ漁や真珠貝採取に出漁し、また明治末期には朝鮮半島に移住して漁村をつくる漁業者もいた。現在はハマチ、タイ、真珠などの養殖が盛ん。低地が少なく、農業は段畑耕作による。近年は観光にも力を入れている。沿岸は屈曲に富むリアス海岸で、鹿島周辺ではサンゴ礁や熱帯魚をみることができ、足摺宇和海(あしずりうわかい)国立公園域の海域公園となっている。北西岸の外泊(そとどまり)地区は西風が強く、防風のために高い石垣を巡らした民家が多く、県から「石垣文化の里」に指定されている。
[横山昭市]
『『西海町誌』(1979・西海町)』
長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡にあった旧町名(西海町(ちょう))。現在は西海市の北部を占める。旧西海町は1969年(昭和44)町制施行。2005年(平成17)西彼(せいひ)町、崎戸(さきと)町、大島(おおしま)町、大瀬戸(おおせと)町と合併、市制施行して西海市となった。西彼杵半島の北端に位置し、国道202号が通じる。旧町域の大半は低平な玄武岩台地で、中央部に虚空蔵(こくぞう)山(307メートル)がある。佐世保(させぼ)湾に臨む横瀬浦(よこぜうら)は、1562年(永禄5)大村純忠(すみただ)が開港して、ポルトガルと貿易を始めた港である。北東の川内(かわち)浦では真珠養殖が行われ、台地上は畑作が主で、柑橘(かんきつ)栽培が盛んである。南西部の中浦地区には、天正(てんしょう)遣欧使節の一人、中浦ジュリアンの出生地がある。伊佐ノ浦はカブトガニの繁殖地。七釜(ななつがま)は第三紀層中の石灰岩に発達した鍾乳洞(しょうにゅうどう)(国指定天然記念物)で有名。
[石井泰義]
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