日本歴史地名大系 「毛利空桑墓」の解説 毛利空桑墓もうりくうそうはか 大分県:大分市旧鶴崎市地区常行村毛利空桑墓[現在地名]大分市常行空桑は近世末期の儒学者・教育者として知られ、墓は県指定史跡。空桑は寛政九年(一七九七)肥後熊本藩領常行(つねゆき)村に生れた。名は倹、通称は到。脇蘭室・帆足万里、熊本の大城霞坪らに学ぶ。のち帆門十哲の一人と称された。文政六年(一八二三)福岡で亀井昭陽(元鳳)に古文辞学を学び、同七年帰郷して常行村に私塾知来館を開く(のちに家塾として鶴崎町に移す)。以後四〇年間にわたり、文武両道の信条に基づいて全国から集まった門下生を教育した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by