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豊後国(大分県)の港町。1601年(慶長6)肥後国熊本城主加藤清正が瀬戸内への通路として豊後に2万3000石の領地を得たのにともない,熊本藩領となる。32年(寛永9)からは細川氏の支配下となり,幕末に至る。大野川河口のデルタに位置し,熊本藩主の参勤交代や豊後領分の年貢米積出しの拠点となり,熊本藩では1756年(宝暦6)より準町とした。町支配の責任者として番代がおかれ,参勤交代に関する役人としては船頭頭の下に船頭・加子が,また御座船波奈之(なみなし)丸・鳳麟丸等の修営のため作事所が設けられていた。民政支配機構としては郡会所が設けられ,郡代の下に役人が配されていた。町支配は町年寄が行い,出,西,新,本,堀川,横,今新,山川,三間,国宗という町筋があった。行政的には〈鶴崎三ヶ村〉といわれる鶴崎,寺司,国宗の3ヵ村からなっていたが,その中には御茶屋敷地の鶴崎小路,3村入組みの鶴崎町がおかれていた。〈鶴崎三ヶ村〉の1813年(文化10)の家数893(御家人,船頭などを含む),人数2280(百姓のみ)であった。古川古松軒《西遊雑記》は〈鶴崎といへる所は甚よき町〉と評しており,船問屋,油屋,宿屋など商工業者の集住で町がにぎわった。文化的にも繁栄し,熊本藩は61年(文久1)成美館という藩校を設けたが,その下地になったのは,毛利空桑が1824年(文政7)に設立した知来館であった。1954年市制が施行され,63年大分市に合体した。
執筆者:豊田 寛三
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大分県中部、大分市の一地区。大野川三角州の一部を占める。旧鶴崎市。地名は戦国末期にみえ、1601年(慶長6)熊本藩領となり、小城下町を形成、河海交通の要地としても繁栄した。明治以後は大野川下流地方の小商業中心にとどまった。1925年(大正14)染料工業、1964年(昭和39)以降製油、重油発電、石油化学工業が立地、大分新産業都市の一部をなす。
[兼子俊一]
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