帆足万里(読み)ほあしばんり

精選版 日本国語大辞典 「帆足万里」の意味・読み・例文・類語

ほあし‐ばんり【帆足万里】

江戸末期儒者蘭学者。字(あざな)は鵬卿。通称里吉。豊後国大分県)の人。窮理物理)学を志し、三浦梅園条理学基礎にオランダ科学書などを研究。西洋近世科学の移入に功があった。主著窮理通」。安永七~嘉永五年(一七七八‐一八五二

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デジタル大辞泉 「帆足万里」の意味・読み・例文・類語

ほあし‐ばんり【帆足万里】

[1778~1852]江戸後期の儒学者・理学者豊後ぶんごの人。あざなは鵬卿。通称、里吉。西欧近世科学を移入し、三浦梅園の説を発展させた。また、豊後日出ひじ藩家老として藩政を改革。著「窮理通」「東潜夫論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「帆足万里」の意味・わかりやすい解説

帆足万里
ほあしばんり
(1778―1852)

江戸末期の漢学者、理学者。豊後(ぶんご)国(大分県)日出藩(ひじはん)の上級士の家に生まれる。通称は里吉、字(あざな)は鵬郷、号は愚亭万里は諱(いみな)である。初め生国で脇蘭室(わきらんしつ)(1764―1814)に、ついで大坂中井竹山(なかいちくざん)、博多(はかた)の亀井南冥(かめいなんめい)、京都の皆川淇園(みながわきえん)らに師事して漢学を修め、1804年(文化1)藩校の教授となり、また塾を開いた。1832年(天保3)藩家老となって藩政改革にあたり、1835年職を辞し、以後は塾での教育に専心した。この間、40歳代にオランダ語を修得し、ヨーロッパの天文学書や自然科学入門書などを読み、その紹介とともに批判や独自の見解も加えた『窮理通(きゅうりつう)』(全8巻)を著した(没後刊行)。医学でも漢方と洋方の折衷論を述べた『医学啓蒙(けいもう)』(1846)、国家体制の改革を論じた『東潜夫論(とうせんぷろん)』(1844)などの著作、『周易』『春秋左氏伝』『大学』『論語』などの標註(ひょうちゅう)も多い。

[渡辺 伸]

『帆足図南次書『帆足万里』(1966・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「帆足万里」の意味・わかりやすい解説

帆足万里 (ほあしばんり)
生没年:1778-1852(安永7-嘉永5)

幕末期の科学史家,経世論者。豊後日出(ひじ)藩の上級士の家に生まれた。万里は実名で,通称を里吉,字を鵬卿。少年期より近郷の脇蘭室に儒学を学び,青年期に関西の中井竹山,皆川淇園,ついで福岡の亀井南冥に教えを請い,とくに竹山の影響をうけた。1804年(文化1)藩儒となり,自宅にも塾を設け子弟を養育した。蘭室の師三浦梅園の条理学が思弁にすぎる弊を正し〈其ノ物ニ徴シテ理見(あら)ハル〉学を求めてそれを蘭学に見いだし,蘭語を独修し蘭書10余種を読解し,1836年(天保7)のころ《窮理通》8巻を著した。その間天保3-6年にわたり藩家老を命ぜられ,財政改革を成功させた。42年隠居し西方目刈村に西崦精舎を営み,学徒に教え,また経倫を述べた《東潜夫論》その他《入学新論》《医学啓蒙》など幾多の著書を遺した。《帆足万里全集》2巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「帆足万里」の意味・わかりやすい解説

帆足万里
ほあしばんり

[生]安永7(1778)
[没]嘉永5(1852).6.14.
江戸時代後期の自然哲学者,経世家。豊後日出 (ひじ) 藩の家老帆足 (本姓清原) 通文の子。字は鵬卿。号は愚亭。 14歳から三浦梅園の門人脇愚山に学び,21歳のとき大坂の中井竹山,次いで京都の皆川淇園をたずねたがいずれも心に合せず帰郷した。 27歳のとき藩学の教授にあげられ,かたわら私塾を開いたが来学する者常に数百人に及んだという。父と親交があり,愚山の師であった梅園の学説に触発されて究理の学つまり科学に関心をいだいて『窮理通』を著わした (1810,36) 。これは梅園の条理学が神秘的思弁的性格を有していたのに対して蘭書を通じて得た実証的な近代科学の方法の理解のうえに立つものであった。その内容は,原暦,大界,小界,地球,引力,大気,発気,諸生の8編より成り,自然科学を中心に生物,人種,国民性にまで及ぼうとした総合的な近代科学の叙述である。さらに同書の特色は類書におけるように西洋自然科学書の翻訳,紹介に終らず,批判を加えて受容している点で,日本の科学史上特筆すべきことである。ほかに『東潜夫論』 (44) ,『入学新論』 (44) など。

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百科事典マイペディア 「帆足万里」の意味・わかりやすい解説

帆足万里【ほあしばんり】

江戸後期の自然哲学者,豊後(ぶんご)国日出(ひじ)藩の家老。字は鵬卿(ほうけい),号は西【えん】(せいえん)。脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り,三浦梅園の学説に触れた。のち中井竹山(なかいちくざん),亀井南冥(かめいなんめい)らにも学んだが,梅園の影響が強く,1836年《窮理通(きゅうりつう)》を著して,梅園の〈条理学〉を発展させた。経済,天文,医方,蘭学のほか西洋諸科学に通じ,西洋近世科学移入の上で大きな役割を果たした。著書はほかに《入学新論》《東潜夫論(とうせんぷろん)》《仮名考(かなこう)》など。
→関連項目ミュッセンブルーク

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「帆足万里」の解説

帆足万里 ほあし-ばんり

1778-1852 江戸時代後期の儒者。
安永7年1月15日生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)日出(ひじ)藩の家老の子。脇(わき)愚山にまなび,亀井南冥(なんめい),皆川淇園(きえん)らとまじわる。文化元年藩儒,天保(てんぽう)3年家老となり藩政を改革。独学で蘭学をおさめ,「窮理通」をあらわす。嘉永(かえい)5年6月14日死去。75歳。字(あざな)は鵬卿。通称は里吉。号は文簡,愚亭。著作に「東潜夫論」「医学啓蒙」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「帆足万里」の解説

帆足万里
ほあしばんり

1778〜1852
江戸後・末期の儒者・蘭学者
豊後(大分県)日出 (ひじ) 藩の家老の子で,藩校の教授となり,のち家老として藩政改革を担当。辞任後オランダ語を独習して西洋の自然科学を学び,『窮理通』8巻を著した。ほかに『入学新論』『東潜夫論』など。

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367日誕生日大事典 「帆足万里」の解説

帆足万里 (ほあしばんり)

生年月日:1778年1月15日
江戸時代後期の儒学者
1852年没

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世界大百科事典(旧版)内の帆足万里の言及

【窮理通】より

…豊後日出(ひじ)の儒者帆足万里が1836年(天保7)完成した西欧物理学の体系的な紹介書。8巻。…

【経世済民論】より

…彼の晩年には1837年(天保8)のモリソン号事件,40年のアヘン戦争があり,利明の描いた理想的・平和的な西洋像と異なって,情勢は血なまぐさいものとして映った。信淵の絶対王政的な国家論は,富国強兵を国是とし,強大な軍事力を背景として貿易の論理を強力に展開し,その《宇内混同秘策》の広域的侵略主義は,帆足万里の《東潜夫論》などにおいて,いっそう積極的に継承されていく。
[農政家の経世論]
 以上の経世家たちは,おおむね為政者の側から現実を見つめて方策を〈献言〉する形をとった人々である。…

【東潜夫論】より

…3巻。帆足万里の和文の著で1844年(弘化1)になる。王室,覇府,諸侯の3項からなる。…

【部落解放運動】より

…とくに江戸時代後期には,岡山藩で起こった渋染一揆をはじめ,厳しい支配と差別に対する抵抗が強まった。また幕末期には,加賀藩の千秋藤篤(有磯)や日出(ひじ)藩の帆足万里らが身分解放論を唱え,明治維新期には,加藤弘之や大江卓らが賤民身分の廃止を主張した。明治政府は1871年(明治4),その富国強兵政策の一環として,太政官布告により封建的賤民身分の廃止を宣言した(いわゆる〈解放令〉)。…

※「帆足万里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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