江戸末期の漢学者、理学者。豊後(ぶんご)国(大分県)日出藩(ひじはん)の上級士の家に生まれる。通称は里吉、字(あざな)は鵬郷、号は愚亭、万里は諱(いみな)である。初め生国で脇蘭室(わきらんしつ)(1764―1814)に、ついで大坂の中井竹山(なかいちくざん)、博多(はかた)の亀井南冥(かめいなんめい)、京都の皆川淇園(みながわきえん)らに師事して漢学を修め、1804年(文化1)藩校の教授となり、また塾を開いた。1832年(天保3)藩家老となって藩政改革にあたり、1835年職を辞し、以後は塾での教育に専心した。この間、40歳代にオランダ語を修得し、ヨーロッパの天文学書や自然科学入門書などを読み、その紹介とともに批判や独自の見解も加えた『窮理通(きゅうりつう)』(全8巻)を著した(没後刊行)。医学でも漢方と洋方の折衷論を述べた『医学啓蒙(けいもう)』(1846)、国家体制の改革を論じた『東潜夫論(とうせんぷろん)』(1844)などの著作、『周易』『春秋左氏伝』『大学』『論語』などの標註(ひょうちゅう)も多い。
[渡辺 伸]
『帆足図南次書『帆足万里』(1966・吉川弘文館)』
幕末期の科学史家,経世論者。豊後日出(ひじ)藩の上級士の家に生まれた。万里は実名で,通称を里吉,字を鵬卿。少年期より近郷の脇蘭室に儒学を学び,青年期に関西の中井竹山,皆川淇園,ついで福岡の亀井南冥に教えを請い,とくに竹山の影響をうけた。1804年(文化1)藩儒となり,自宅にも塾を設け子弟を養育した。蘭室の師三浦梅園の条理学が思弁にすぎる弊を正し〈其ノ物ニ徴シテ理見(あら)ハル〉学を求めてそれを蘭学に見いだし,蘭語を独修し蘭書10余種を読解し,1836年(天保7)のころ《窮理通》8巻を著した。その間天保3-6年にわたり藩家老を命ぜられ,財政改革を成功させた。42年隠居し西方目刈村に西崦精舎を営み,学徒に教え,また経倫を述べた《東潜夫論》その他《入学新論》《医学啓蒙》など幾多の著書を遺した。《帆足万里全集》2巻がある。
執筆者:井上 忠
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…彼の晩年には1837年(天保8)のモリソン号事件,40年のアヘン戦争があり,利明の描いた理想的・平和的な西洋像と異なって,情勢は血なまぐさいものとして映った。信淵の絶対王政的な国家論は,富国強兵を国是とし,強大な軍事力を背景として貿易の論理を強力に展開し,その《宇内混同秘策》の広域的侵略主義は,帆足万里の《東潜夫論》などにおいて,いっそう積極的に継承されていく。
[農政家の経世論]
以上の経世家たちは,おおむね為政者の側から現実を見つめて方策を〈献言〉する形をとった人々である。…
…3巻。帆足万里の和文の著で1844年(弘化1)になる。王室,覇府,諸侯の3項からなる。…
…とくに江戸時代後期には,岡山藩で起こった渋染一揆をはじめ,厳しい支配と差別に対する抵抗が強まった。また幕末期には,加賀藩の千秋藤篤(有磯)や日出(ひじ)藩の帆足万里らが身分解放論を唱え,明治維新期には,加藤弘之や大江卓らが賤民身分の廃止を主張した。明治政府は1871年(明治4),その富国強兵政策の一環として,太政官布告により封建的賤民身分の廃止を宣言した(いわゆる〈解放令〉)。…
※「帆足万里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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