水海村(読み)みずうみむら

日本歴史地名大系 「水海村」の解説

水海村
みずうみむら

[現在地名]総和町水海

高野こうや村西方に所在。東南に水海沼、西に釈迦しやか(ともに現在は水田)、南に利根川とその流作場がある。村全体は低地で、北部と西部に集落があり、利根川には八幡はちまん河岸・喜四郎きしろう河岸があった。字おもてまえの表ノ前遺跡は縄文時代、神明西しんめいにし遺跡・三島前みしままえ遺跡は古墳時代。簗田満助は永享七年(一四三五)頃に佐竹義憲より下総関宿近郷を譲り受け、水海城を築いて支配した。のち主城を関宿に構え移すが、当地の支配は続いた。永禄一〇年(一五六七)に北条氏政が簗田持助に出した起請文(簗田文書)に「一関宿之地・水海之地、永代不可有望事、一持助・晴助親子之内、御膝下并小田原へ参府之上留置間敷事」とあり、同月の足利義氏契状写(静嘉堂本集古文書)にも同様のことがみえる。


水海村
みずうみむら

[現在地名]池田町水海

足羽あすわ川の支流水海川に沿い、南に大黒だいこく山、北に部子へこ山を眺める谷あいの村。東方、大野郡境の巣原すはら峠を経て美濃国に通ずる交通の要所。当地の田中家文書(原家蔵)には売券を中心とする中世文書がかなり伝来する。最古の文書は至徳三年(一三八六)賀宝かほう五所明神の棟札写で、「奉修造池田庄水海郷宮地村加宝之御宝殿事」と水海の名がみえる。そのほか「売主池田水海西村之住人(文明九年)、「きしん主池田下庄水海上ノ村之住人」(同一三年)、「ミつうミ西村ちう人光正」(永正二年)、「いけた見つみ地蔵堂住人浄観」(天文四年)、「池田ミつうみちそうたう村住人志やう」(同七年)、「ミつうミたう村住人」(同二〇年)、「うり主水海堂村住人」(永禄四年)、「上宮地村小四郎」(天正元年)、「水海村五郎左衛門」(同八年)などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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