日本歴史地名大系 「沖萢村」の解説 沖萢村おきやちむら 青森県:西津軽郡柏村沖萢村[現在地名]柏村玉水(たまみず)北は末吉(すえよし)村、東は玉水村、田圃を隔てて西は蓮沼(はすぬま)村(現木造町)、南は広萢(ひろやち)村。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。村の起源は藤岡(ふじおか)(現木造町)に始まり、正保年間(一六四四―四八)には家が七軒ほどあったという(柏村郷土史)。享保一二年(一七二七)には広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二八町四反一畝一五歩、村高は一九九・五一七石であった。うち田方は二六町七反二三歩で一九二・五三七石、上田から下々田まで設定され、下田が九町一反五畝二五歩で六四・一〇九石、下々田八町七反九畝二五歩で四三・九九二石とあり、上畑がなくほぼ同面積の中・下・下々畑で、屋敷地を含めて一町七反二二歩、六・九八石とある。 沖萢村おきやちむら 青森県:南津軽郡浪岡町沖萢村[現在地名]浪岡町女鹿沢 東早稲田十(と)川の氾濫原低湿地帯よりわずかに高い台地上にあり、田圃を隔てて東に吉内(きちない)村、西に赤茶(あかちや)村がある。天和四年(一六八四)の書上帳の絵図に沖村とあり、目鹿沢(めがさわ)村の支村であった。元禄二年(一六八九)には家数七(津軽史)。のち沖之萢村とよばれ、天保年間(一八三〇―四四)沖萢村となるが(「内見秘書」百川家蔵)、藩政期を通じて支村であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by