泉南郡(読み)せんなんぐん

日本歴史地名大系 「泉南郡」の解説

泉南郡
せんなんぐん

面積:一〇四・八八平方キロ
熊取くまとり町・田尻たじり町・阪南はんなん町・みさき

府の南西部にあり、明治二九年(一八九六)南郡と日根郡を合せて成立した郡で、郡名は旧和泉国の南部に位置することによる。その後郡域に岸和田市・貝塚市・泉佐野市・泉南市が成立したため、現郡域は貝塚市・泉佐野市に挟まれた内陸部の熊取町、泉佐野市・泉南市に挟まれた海浜部の田尻町、大阪湾に面し和泉山脈をもって和歌山県に接する南端の阪南町・岬町の三地域に分断されている。

〔原始・古代〕

阪南町石田いしだで最近、有舌尖頭器が発見され、郡域でも旧石器遺跡のある可能性がでてきた。縄文時代や弥生時代の遺物が出土した遺跡には、岬町淡輪たんのわ遺跡・熊取町成合寺じようごうじ遺跡などがある。さらに阪南町から岬町にかけた大阪湾岸では、製塩に関係したとみられる遺物類が出土し、岬町小島東こじまひがし遺跡では製塩の具体相が判明した。古墳は阪南町の丘陵地に七世紀頃の玉田山たまだやま古墳があり、また岬町では海岸辺の宇度墓うどばか古墳と西陵さいりよう古墳という二つの大型前方後円墳を中心に古墳が集中する。この二基の前方後円墳は、その地域の経済力だけで成立したとは考えられず、おそらく紀ノ川河口の岩橋いわせ千塚(現和歌山市)に表徴される紀伊の政治勢力となんらかの関係をもつものであろう。ほかに岬町域にはこう巣山すやま古墳群・真鍋山まなべやま古墳・白峠山しらとうげやま古墳・磯山いそやま古墳群など、五―六世紀頃の古墳が多数ある。以上のように郡南部は先進地域であった紀ノ川流域に近いため、政治・文化の早くから開けた地であったと考えられる。「日本書紀」によれば、神武天皇は東征の時に茅渟の山城水門ちぬのやまきのみなとから雄水門おのみなとを経て紀伊国に入ったといい、また垂仁天皇の子五十瓊敷命は茅渟の菟砥川上うどのかわかみ宮にいて剣一千口を作ったとされ、雄略天皇のときの新羅出兵中病死した紀小弓は田身輪たむわ邑に葬られたという。雄水門は現泉南市との境を流れる男里おのさと川河口部に比定され、前記宇度墓古墳は五十瓊敷命墓と伝え、田身輪邑は岬町淡輪と考えられている。これらをそのまま史実とみなすことはできないが、背景に当地方の有力豪族の存在がうかがえる。

和泉には天皇の行宮が置かれ、しばしば行幸があった。称徳天皇は紀伊行幸の帰途深日ふけ行宮(現岬町)に立寄り、桓武天皇も紀伊から日根行宮に還御し熊取野(現熊取町)で遊猟している。「和名抄」記載の郷では現阪南町・岬町付近に日根郡鳥取ととり郷があったとみられている。式内社としては日根郡波太はた神社(現阪南町)、同国玉くにたま神社(現岬町)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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