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第50代に数えられる天皇。在位781-806年。光仁天皇を父とし,高野新笠を母として生まれ,名を山部(やまべ)王といった。父は天智天皇の孫,施基(しき)皇子の子で白壁(しらかべ)王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが,770年(宝亀1)称徳天皇が没したとき,62歳で皇位を継承した。光仁天皇には皇后井上(いかみ)内親王との子とする他戸(おさべ)親王があり,これが皇太子に立てられた。渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務卿となっていたが,772年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が37歳で皇太子に立てられ,781年(天応1)即位した。ここに至るまでには,藤原氏の永手(ながて)・百川(ももかわ)らの策動があったとされる。桓武朝は奈良時代後期のたびかさなる権力闘争や過度の崇仏などによる政治的混乱,および班田制の矛盾や国司の不正などによる社会不安に直面していたが,天皇は気力,体力ともにすぐれ,また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験をもち,治世の間,左大臣を置くことなく,みずから強力に政治を指導し,独裁的権力を行使した。この点歴代天皇の中でも異色の存在である。
在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず784年(延暦3)6月長岡京造営工事をはじめ,11月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良(さわら)親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は793年山背国葛野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年11月これを〈平安京〉と名付け遷都した。その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた。次に後者は,光仁朝末期の780年(宝亀11)陸奥国上治郡の大領伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして以来,大伴家持,紀古佐美(きのこさみ)らに率いられる征討軍は鎮定の功をあげることができず,ことに789年には蝦夷の将阿弖流為(あてるい)のために1000人余の死者を出して大敗するありさまであった。しかし天皇は渡来人系の坂上田村麻呂を抜擢して征夷大将軍とし,その巧妙な戦略によって801年(延暦20)奥地の胆沢地方まで平定できた。平安京の建設と蝦夷征討の後世に及ぼした影響は大きいが,両者に要した巨額の費用は財政を圧迫し,ひいては民生の窮乏を招き,さらに早良親王の怨霊の祟りによって皇后藤原乙牟漏(おとむろ)の死や皇太子安殿(あて)親王(のちの平城天皇)の病気が起こるなど,桓武朝後半には暗い社会情勢がつのった。そこで天皇は800年早良親王に崇道天皇の号を贈り,井上内親王をも皇后位に復するなど怨霊の慰撫につとめ,また805年参議藤原緒嗣の意見を用いて造都,征夷の両事業を停止した。桓武天皇は渡来人の血をひくため中国文化に心酔し,また鷹狩を愛し,後宮も盛大をきわめるなど,古代帝王的面目を発揮した。その子平城・嵯峨・淳和天皇がつづいて皇位を継承し,葛原(かつらはら)親王の子孫は桓武平氏として栄えた。陵は柏原陵(京都市伏見区桃山町)。
執筆者:目崎 徳衛
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(瀧浪貞子)
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日本古代の天皇(在位781~806)。父は天智(てんじ)天皇の孫光仁(こうにん)天皇、母は百済(くだら)系渡来氏族の出の高野新笠(たかののにいがさ)。諱(いみな)は山部(やまべ)。その資質を見抜いた藤原百川(ももかわ)の策謀により、773年(宝亀4)皇太子となり、781年(天応1)45歳で即位した。
784年(延暦3)には、それまでの平城京から、山背(やましろ)国(京都府)の長岡京への遷都を断行した。翌年、遷都と絡んで、造営の中心人物藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、皇太弟早良(さわら)親王が廃位され死亡する事件があった。その後、親王の怨霊(おんりょう)の所為とされる近親の死亡が相次いだため、794年には同じ山背の葛野(かどの)に遷都、平安京と命名した。天皇は他方、蝦夷(えみし)の抵抗を圧服して東北地方の支配を進め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を起用、802年には胆沢(いさわ)城(岩手県)を築き、その平定に成功した。天皇はまた、地方政治に意を用い、国司・郡司に対する監督を強化し、国司交替の円滑化を図って勘解由使(かげゆし)を置き、また交替式を定めた。班田を励行させ、辺要の地を除いて兵士を廃止して健児(こんでい)を置き、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減して農民の負担を省いたが、造都と征夷の二大事業には惜しみなく人民の労力と国家の財力とを投入した。天皇は貴族勢力を抑えて国政を主導し、政局の転換に成功したが、晩年その政策は行き詰まり、805年、藤原緒嗣(おつぐ)の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年70歳で没し、山城国紀伊郡(京都市伏見(ふしみ)区)の柏原(かしわばら)山陵に葬られた。
[笹山晴生]
『村尾次郎著『桓武天皇』(1963・吉川弘文館)』
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737~806.3.17
在位781.4.3~806.3.17
日本根子皇統弥照(やまとねこみすまるいよよてらす)天皇と称する。光仁天皇の皇子。母は和乙継(やまとのおとつぐ)の女高野新笠(たかののにいがさ)。山部王と称し,光仁即位ののち親王号を与えられた。772年(宝亀3)異母弟の皇太子他戸(おさべ)親王が母の皇后井上内親王とともに廃されると,翌年立太子し,781年(天応元)天皇の譲位をうけて即位した。同母弟の早良(さわら)親王を皇太子としたが,785年(延暦4)藤原種継暗殺事件にかかわってこれを廃し,子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。784年には長岡京,794年には平安京への遷都を行って政治の局面の転換をはかり,強大な皇権を確立した。地方政治の刷新を行い,また蝦夷(えみし)の征討を行って東北地方の支配を固めた。
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…784年(延暦3)から794年まで,山城国乙訓(おとくに)郡(現在の京都府向日(むこう)市,長岡京市,京都市,乙訓郡大山崎町)にあった古代の都城。 奈良時代末期の781年(天応1),父光仁天皇からはからずも帝位をゆずられた山部親王(桓武天皇)は,旧都平城京を捨てて新都を建設し,人心を一新して律令体制をたてなおそうとした。それは,平城京時代70年間に強大になった寺院勢力などの旧弊を断ち切り,新しい政治を行うことをめざすことでもあった。…
…京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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