桓武天皇(読み)カンムテンノウ

デジタル大辞泉 「桓武天皇」の意味・読み・例文・類語

かんむ‐てんのう〔クワンムテンワウ〕【桓武天皇】

[737~806]第50代天皇。在位、781~806。光仁天皇の第1皇子。いみなは山部。長岡京平安京への遷都、蝦夷えぞ征討、最澄空海の登用による平安仏教の確立、地方政治振興など内政面の業績が多い。柏原かしわばら天皇。

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精選版 日本国語大辞典 「桓武天皇」の意味・読み・例文・類語

かんむ‐てんのうクヮンムテンワウ【桓武天皇】

  1. 第五〇代天皇。光仁天皇の皇子。諱は山部。天応元年(七八一)即位し、在位二五年。平城京から長岡京に、ついで延暦一三年(七九四)平安京に遷都。坂上田村麻呂による東北の蝦夷征伐地方行政の整備などを行ない、律令政治の再建に努めた。柏原帝。天平九~延暦二五年(七三七‐八〇六

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百科事典マイペディア 「桓武天皇」の意味・わかりやすい解説

桓武天皇【かんむてんのう】

奈良末期・平安初期の天皇。称徳天皇の死で天武系主流が絶えたあと,781年に即位し,806年まで在位。光仁(こうにん)天皇の皇子,母は高野新笠(たかののにいがさ)。奈良時代の仏教政治の弊害を除くために,新宗派の設立を助け,784年長岡京を造営,794年平安京遷都を行い,律令政治の改良に努力。健児(こんでい)制による軍制を強化,勘解由使(かげゆし)を設けた。また坂上田村麻呂蝦夷(えみし)経営を行わせた。→平氏
→関連項目伊治呰麻呂蒲生野高陽院京都[市]光仁天皇早良親王淳和天皇大日本武徳会藤原魚名藤原種継藤原百川古津平安神宮平安遷都平城天皇遍昭

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改訂新版 世界大百科事典 「桓武天皇」の意味・わかりやすい解説

桓武天皇 (かんむてんのう)
生没年:737-806(天平9-大同1)

第50代に数えられる天皇。在位781-806年。光仁天皇を父とし,高野新笠を母として生まれ,名を山部(やまべ)王といった。父は天智天皇の孫,施基(しき)皇子の子で白壁(しらかべ)王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが,770年(宝亀1)称徳天皇が没したとき,62歳で皇位を継承した。光仁天皇には皇后井上(いかみ)内親王との子とする他戸(おさべ)親王があり,これが皇太子に立てられた。渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務卿となっていたが,772年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が37歳で皇太子に立てられ,781年(天応1)即位した。ここに至るまでには,藤原氏の永手(ながて)・百川(ももかわ)らの策動があったとされる。桓武朝は奈良時代後期のたびかさなる権力闘争や過度の崇仏などによる政治的混乱,および班田制の矛盾や国司の不正などによる社会不安に直面していたが,天皇は気力,体力ともにすぐれ,また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験をもち,治世の間,左大臣を置くことなく,みずから強力に政治を指導し,独裁的権力を行使した。この点歴代天皇の中でも異色の存在である。

 在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず784年(延暦3)6月長岡京造営工事をはじめ,11月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良(さわら)親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は793年山背国葛野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年11月これを〈平安京〉と名付け遷都した。その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた。次に後者は,光仁朝末期の780年(宝亀11)陸奥国上治郡の大領伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして以来,大伴家持,紀古佐美(きのこさみ)らに率いられる征討軍は鎮定の功をあげることができず,ことに789年には蝦夷の将阿弖流為(あてるい)のために1000人余の死者を出して大敗するありさまであった。しかし天皇は渡来人系の坂上田村麻呂を抜擢して征夷大将軍とし,その巧妙な戦略によって801年(延暦20)奥地の胆沢地方まで平定できた。平安京の建設と蝦夷征討の後世に及ぼした影響は大きいが,両者に要した巨額の費用は財政を圧迫し,ひいては民生の窮乏を招き,さらに早良親王の怨霊の祟りによって皇后藤原乙牟漏(おとむろ)の死や皇太子安殿(あて)親王(のちの平城天皇)の病気が起こるなど,桓武朝後半には暗い社会情勢がつのった。そこで天皇は800年早良親王に崇道天皇の号を贈り,井上内親王をも皇后位に復するなど怨霊の慰撫につとめ,また805年参議藤原緒嗣の意見を用いて造都,征夷の両事業を停止した。桓武天皇は渡来人の血をひくため中国文化に心酔し,また鷹狩を愛し,後宮も盛大をきわめるなど,古代帝王的面目を発揮した。その子平城・嵯峨・淳和天皇がつづいて皇位を継承し,葛原(かつらはら)親王の子孫は桓武平氏として栄えた。陵は柏原陵(京都市伏見区桃山町)。
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朝日日本歴史人物事典 「桓武天皇」の解説

桓武天皇

没年:大同1.3.17(806.4.9)
生年:天平9(737)
平安時代最初の天皇。光仁天皇と夫人高野新笠との長男。天智天皇の曾孫。名は山部。母の家柄が低かったため,当初皇位継承者という立場にはなかったが,宝亀3(772)年,36歳に至って,光仁皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后,次いでその子他戸親王も廃太子されるにおよび,翌年1月立太子された。ただしこの立太子は藤原百川が「奇計」を用いて実現したもので,のちのち桓武はこれを多としている。天応1(781)年4月に即位,同母弟早良親王を皇太子に立てた。時に45歳。当初,みずからは聖武(広義には天武)系の皇統を受け継いだとの認識をもって行動するが,これを否定する氷上川継などの動きが相次いで起こり,天智系の皇統意識に目覚めさせられている。そこで行ったのが藤原種継の進める平城京の放棄=長岡京遷都で,3年後の延暦3(784)年,万事が改まるという「甲子革令」の年を選んでこれを断行した。この遷都は長らく続いた大和宮都を放棄した「山背」遷都という点でも歴史的意義は大きい。またこの遷都には寺院勢力の抑制も意図されており,寺院の移転や造営を認めていない。しかし翌4年9月,伊勢斎王となった娘の朝原内親王を送るため平城旧宮に滞在していた留守中,遷都=造都の中心人物種継が暗殺され関係者を厳しく処断したが,事業は大打撃を受けることになる。もっともこの事件は,はからずも弟の早良を廃太子に追いやり,子の安殿親王(のちの平城天皇)の立太子を実現するきっかけともなった。その後皇后乙牟漏,夫人旅子などが相次いで没し,特に11年,安殿親王の病弱が早良の祟りと占いに出たことなどから,和気清麻呂の建策に従い長岡棄都を決意,12年新京の地として山背国葛野郡宇太村を選んで造都に着手,13年10月22日,このときも「辛酉革命」に当たる日次を選び長岡京より遷っている。翌11月の詔で,新京を平安京と命名するとともに山背国を山城国と改めている。その後における造都事業は自身でたびたび工事現場を視察するなど,長岡造都時に比べるとはるかに積極的かつ慎重に進めている。一方東北経略も光仁朝の課題を引き継ぐ形で7年以降3次にわたって実施しているが,この間における坂上田村麻呂の果たした役割が大きい。 延暦23(804)年を過ぎたころからしばしば重病となり,24年12月,ともに腹心の藤原緒嗣と菅野真道に議論させた,いわゆる「徳政相論」を承けて蝦夷経営と造都事業を打ち切ったが,これは事態を文字通り劇的に終結させた桓武一流のパフォーマンスであったとみられる。「政事に心を用い,文華は好まなかった」といわれるゆえんである。もっとも23年,最澄や空海を伴った遣唐使の発遣は,のち嵯峨朝に至ってピークに達する唐風文化の隆盛をもたらしたという点で重要である。「造都,軍事による出費は多かったが,万世の基礎を築いた」というのが『日本後紀』に記す桓武評である。山陵は当初宇多野(京都市右京区)とされたが賀茂神社に近いことから柏原山陵(伏見区)に改められた。母が渡来王族の後裔であったことから百済王氏の男女を重用して「朕の外戚」と呼び,またその一族の女性を多数後宮に入れたが,これが後宮制度の変化をもたらす要因となった。<参考文献>村尾次郎『桓武天皇』

(瀧浪貞子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桓武天皇」の意味・わかりやすい解説

桓武天皇
かんむてんのう
(737―806)

日本古代の天皇(在位781~806)。父は天智(てんじ)天皇の孫光仁(こうにん)天皇、母は百済(くだら)系渡来氏族の出の高野新笠(たかののにいがさ)。諱(いみな)は山部(やまべ)。その資質を見抜いた藤原百川(ももかわ)の策謀により、773年(宝亀4)皇太子となり、781年(天応1)45歳で即位した。

 784年(延暦3)には、それまでの平城京から、山背(やましろ)国(京都府)の長岡京への遷都を断行した。翌年、遷都と絡んで、造営の中心人物藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、皇太弟早良(さわら)親王が廃位され死亡する事件があった。その後、親王の怨霊(おんりょう)の所為とされる近親の死亡が相次いだため、794年には同じ山背の葛野(かどの)に遷都、平安京と命名した。天皇は他方、蝦夷(えみし)の抵抗を圧服して東北地方の支配を進め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を起用、802年には胆沢(いさわ)城(岩手県)を築き、その平定に成功した。天皇はまた、地方政治に意を用い、国司・郡司に対する監督を強化し、国司交替の円滑化を図って勘解由使(かげゆし)を置き、また交替式を定めた。班田を励行させ、辺要の地を除いて兵士を廃止して健児(こんでい)を置き、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減して農民の負担を省いたが、造都と征夷の二大事業には惜しみなく人民の労力と国家の財力とを投入した。天皇は貴族勢力を抑えて国政を主導し、政局の転換に成功したが、晩年その政策は行き詰まり、805年、藤原緒嗣(おつぐ)の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年70歳で没し、山城国紀伊郡(京都市伏見(ふしみ)区)の柏原(かしわばら)山陵に葬られた。

笹山晴生

『村尾次郎著『桓武天皇』(1963・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桓武天皇」の意味・わかりやすい解説

桓武天皇
かんむてんのう

[生]天平9 (737). 京都
[没]大同1 (806).3.17. 京都
第50代の天皇(在位 781~806)。名は日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)。山部親王。光仁天皇の第1皇子であったが,母が渡来人の出の高野新笠だったため皇太子となれなかった。皇太子の他戸親王(おさべしんのう)が廃されて,皇位についたときはすでに 45歳であった。奈良時代の仏教政治の弊を除くため,僧の不法を取り締まり,最澄空海を起用して新仏教を興させた。律令政治(→律令制)に改良を加えてその実行を励まし,ことに地方政治に意を注ぎ,また延暦13(794)年平安京を開き,奥羽の蝦夷平定のため坂上田村麻呂を将軍として 3回遠征させた。在位 24年11ヵ月。陵墓は京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桓武天皇」の解説

桓武天皇 かんむてんのう

737-806 奈良-平安時代前期,第50代天皇。在位781-806。
天平(てんぴょう)9年生まれ。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。父の譲位で,天応元年即位。長岡,平安と2度都をうつす。健児(こんでい)や勘解由使(かげゆし)をおき,坂上田村麻呂(さかのうえの-たむらまろ)を征夷大将軍として東北地方に派遣するなど,律令国家としての強化・拡大をはかった。正史「続日本紀(しょくにほんぎ)」を完成させ,その治世中,最澄,空海により唐(中国)から新仏教がつたえられた。延暦(えんりゃく)25年3月17日死去。70歳。墓所は柏原陵(かしわばらのみささぎ)(京都市伏見区)。別名は山部(やまべ)親王,日本根子皇統弥照天皇(やまとねこすめろぎいやてりのすめらみこと),柏原天皇
【格言など】いにしへの野中古道あらためばあらたまらむや野中古道(「日本後紀」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「桓武天皇」の解説

桓武天皇
かんむてんのう

737~806.3.17

在位781.4.3~806.3.17

日本根子皇統弥照(やまとねこみすまるいよよてらす)天皇と称する。光仁天皇の皇子。母は和乙継(やまとのおとつぐ)の女高野新笠(たかののにいがさ)。山部王と称し,光仁即位ののち親王号を与えられた。772年(宝亀3)異母弟の皇太子他戸(おさべ)親王が母の皇后井上内親王とともに廃されると,翌年立太子し,781年(天応元)天皇の譲位をうけて即位した。同母弟の早良(さわら)親王を皇太子としたが,785年(延暦4)藤原種継暗殺事件にかかわってこれを廃し,子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。784年には長岡京,794年には平安京への遷都を行って政治の局面の転換をはかり,強大な皇権を確立した。地方政治の刷新を行い,また蝦夷(えみし)の征討を行って東北地方の支配を固めた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「桓武天皇」の解説

桓武天皇
かんむてんのう

737〜806
平安初期の天皇(在位781〜806)
光仁天皇第1皇子。仏教政治の弊害を除くため,平城京から長岡京を経て,794年平安遷都を行った。最澄・空海の新仏教を保護し,律令制を再建するため,班田収授制を励行,勘解由使 (かげゆし) を設けて国司の監督を強化し,辺要の地を除いて軍団を廃し,健児 (こんでい) を置いた。また坂上田村麻呂を起用して蝦夷 (えみし) 征討を行った。

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世界大百科事典(旧版)内の桓武天皇の言及

【長岡京】より

…784年(延暦3)から794年まで,山城国乙訓(おとくに)郡(現在の京都府向日(むこう)市,長岡京市,京都市,乙訓郡大山崎町)にあった古代の都城。 奈良時代末期の781年(天応1),父光仁天皇からはからずも帝位をゆずられた山部親王(桓武天皇)は,旧都平城京を捨てて新都を建設し,人心を一新して律令体制をたてなおそうとした。それは,平城京時代70年間に強大になった寺院勢力などの旧弊を断ち切り,新しい政治を行うことをめざすことでもあった。…

【平安神宮】より

…京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。…

※「桓武天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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