浜口 儀兵衛(10代目)
ハマグチ ギヘエ
大正・昭和期の実業家 ヤマサ醬油社長。
- 生年
- 明治7年4月24日(1874年)
- 没年
- 昭和37(1962)年1月31日
- 出生地
- 和歌山県
- 別名
- 号=梧洞
- 学歴〔年〕
- 東京帝大理学専科卒
- 経歴
- 大学在学中、欧米各国を歴遊し、イギリスで発酵学者グラハムに化学を学ぶ。明治26年から浜口儀兵衛商店(現・ヤマサ醬油)の10代目として経営にあたり、業務の拡張、品質の向上を図って近代企業としてのヤマサ醬油の発展に尽力。28年開業250年にして宮内省御用達の許可を受ける。39年浜口合名会社に改組、昭和3年ヤマサ醬油を創設、社長。18年長男(第11代儀兵衛)に社長を譲り、会長となった。また大正14年〜昭和14年多額納税者として貴院議員を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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浜口儀兵衛(7代)
没年:明治18.4.21(1885)
生年:文政3.6.15(1820.7.24)
幕末明治期の醤油醸造家。紀伊国(和歌山県)有田郡広村生まれ。浜口家は他の広村出身者と共に,江戸前期より代々が銚子(千葉県)で醤油醸造業(ヤマサ醤油)を営む。嘉永6(1853)年家督を相続。号は梧陵。家業の傍ら,佐久間象山の門にも出入りし,幕末藩政改革期の紀州藩の勘定奉行,大広間席学習館知事などを歴任した。その後も政界で活躍し,明治13(1880)年には初代和歌山県会議長にも任ぜられ,和歌山の政治組織木国同友会にもかかわった。 戦前の小学校教科書,あるいは小泉八雲の「生きる神様」などで広く知られた安政1(1854)年の安政大地震(大津波を伴った)の際の「稲村の火」のエピソード(取り入れたばかりの自分の稲に火をつけて燃やし,村人に津波の危機を知らせた)は,この梧陵がモデルであり,その後の防潮堤建設にも巨費を投じている。醸造業経営者としてよりも,社会的活動に自己実現の場を求めた人物といえよう。<参考文献>杉村広太郎『浜口梧陵伝』,林玲子編『醤油醸造業史の研究』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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浜口儀兵衛(10代) はまぐち-ぎへえ
1874-1962 明治-昭和時代の実業家。
明治7年4月24日生まれ。32年千葉県銚子の醤油(しょうゆ)醸造業浜口儀兵衛商店の10代目をつぐ。昭和3年株式会社ヤマサ醤油に改組して社長となり,経営・工程の近代化につとめた。貴族院議員。昭和37年1月31日死去。87歳。和歌山県出身。帝国大学卒。号は梧洞。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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浜口 儀兵衛(10代目) (はまぐち ぎへえ)
生年月日:1874年4月24日
大正時代;昭和時代の実業家。ヤマサ醤油社長
1962年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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