中世よりみえる地名で、
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長崎市の中心市街北部の一地区。旧浦上山里(やまざと)村、西浦上村。JR長崎本線浦上駅がある。中世末からキリシタンの里で、江戸幕府の弾圧開始後も信仰を守り続けたが、1790年(寛政2)以後4回の大きな弾圧を受けた(浦上崩れ)。1867~1868年(慶応3~明治1)の四番崩れがもっとも厳しく、全村総流罪(3394人)の受難にあい、1873年にやっと帰村している。明治時代は長崎市街地に隣接しながらも農牧を主としていたが、大正時代に入って三菱(みつびし)兵器製作所や三菱製鋼所の設立があり、都市化が進み、文教、住宅地区として発展した。1945年(昭和20)8月9日、原爆投下にあい、浦上を中心に半径4キロメートル圏内は大きな被害を受け、死者7万3884人を出し、街は焼失した。現在、浦上天主堂、平和公園、長崎原爆資料館のほか、長崎大学医学部や長崎大学病院などがある。
[石井泰義]
長崎市北部の浦上川に沿った盆地状の地域。かつての浦上村の範囲をさす通称名で,長崎本線浦上駅はあるが,現在の行政地名にはない。近世のキリシタン弾圧(浦上崩れ)下にあっても信仰を棄てなかった潜伏キリシタンが,長崎では浦上地域に多かった。再三の迫害に耐えた浦上キリシタンは,信仰の中心,浦上天主堂を30年の歳月を要して1925年完成した。第2次世界大戦中,三菱重工の製鋼所,下請工場が集中していたが,45年8月9日の原爆投下によって浦上は完全に焦土と化し,天主堂も焼失した。戦後30余年,被災地は復興し天主堂も再建され,爆心地付近には平和公園,長崎原爆資料館など原爆にちなむ諸施設がつくられ,観光長崎の焦点の一つとなった。盆地を取り巻く山腹は高度100mくらいまで宅地化が進み,住吉,浜口など地区中心商店街の発達が目覚ましい。また長崎大学の本部,教養部と4学部が北部の文教町に医学部,薬学部,大学付属病院が坂本にあり,浦上駅周辺には原爆病院,県総合福祉センター,陸上など各種競技場,室内体育館があって,学園,文化地区となっている。
執筆者:竹内 清文
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…幅1km,奥行き4km,平均水深18mのリアス式湾入の長崎湾を抱くようにして山腹の急斜面にまで市街地が発達し,周縁部は金比羅(こんぴら)山,稲佐山など標高400m前後の長崎火山地によって囲まれている。おもな河川は南から大浦川,中島川,浦上川があり,いずれも小河川で沖積平野の発達は悪く,市街地にみられるわずかな平たん地のほとんどは,河口付近に形成された埋立地である。湾の東岸にある中心市街地は16世紀末,長崎港にポルトガル船が入港して以来,港町として,またキリシタン伝道の中心として発展し,鎖国時代においても日本で唯一の貿易港として栄えた。…
…大村純忠は長崎を竜造寺氏に奪われることを防ぐためと,ポルトガル船の長崎入港を固定化する目的で,79年長崎と茂木(もぎ)をイエズス会の教会領として寄進した。また有馬晴信も84年浦上を同じく寄進した。長崎,茂木,浦上は88年豊臣秀吉によって没収されるまでの8年間,イエズス教会領として支配された。…
※「浦上」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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