浦之郷村(読み)うらのごうむら

日本歴史地名大系 「浦之郷村」の解説

浦之郷村
うらのごうむら

[現在地名]西ノ島浦郷うらごう

美田みた村の西方、西ノ島の西半部を占める。中世美多みた庄に含まれたと考えられる。元亀年間(一五七〇―七三)と推定される三月九日の隠岐清家書状(笠置家文書)浦郷とみえ、同郷の荒屋敷・荒畠を笠置与三左衛門尉の支配とすることを浦郷公文に伝えている。天正一一年(一五八三)頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(村上家文書)では浦郷は鰒五連・串子一〇連を納めることとされていた。同一四年七月一八日の宇賀六郎左衛門等連署申状写(焼火神社文書)では浦ノ郷とし、別府などとともに領域支配の単位となっている。正保国絵図に浦江村とみえ、ほか浦江村内として南に「うつこ」「あらを」「みたへ」「いきな」「しやくゑ」「くつミ」「ちんさき」が記載される。承応三年(一六五四)の免相状(渡辺家文書)には浦郷公文百姓中とあり、高七三石余に対し定引一三石余と風損・干損五〇石余の当引があり、物成一石余、畑方は麻畑高一三石余・物成九石余、稗高二七一石余(長尾牧)・物成皆無、大豆高二九四石余(由良珍崎牧)・物成大豆八石余、小豆高二五〇石余(赤尾牧)・物成小豆一二石余、来麦高二七九石余(老屋牧)・物成麦六八石余とし、この年の日損により減免とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報