別府(読み)ベップ

デジタル大辞泉 「別府」の意味・読み・例文・類語

べっぷ【別府】[地名]

大分県中部、別府湾に面する市。別府八湯中心に発展した観光地。血の池地獄・海地獄などの地獄めぐりコースがある。人口12.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「別府」の意味・読み・例文・類語

べっぷ【別府】

  1. 大分県中部の地名。鶴見岳高崎山に囲まれて別府湾に面する温泉保養都市。江戸時代大部分が天領で、温泉宿の営業が公許されていた。大正一三年(一九二四)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「別府」の意味・わかりやすい解説

別府[市] (べっぷ)

大分県中部,別府湾に臨む市。1924年市制。人口12万5385(2010)。鶴見岳(1375m)を主峰とする鶴見火山群を背景に,そのすそ野に広がる火山性の石垣原(いしがきばる)扇状地一帯に市街地が展開し,日本有数の国際的保養温泉都市となっている。古くから知られている〈別府八湯〉は,石垣原南部の別府温泉泉質は重炭酸土類泉,食塩泉,重曹泉など多様。28~112℃),浜脇温泉(単純泉,50~60℃),観海寺温泉(単純泉,純食塩泉,57℃),堀田(ほりた)温泉(単純炭酸泉,80~100℃),石垣原北部の亀川温泉(単純泉,純食塩泉,50~70℃),柴石(しばせき)温泉(炭酸鉄泉,69℃),鉄輪(かんなわ)温泉(酸性緑バン泉ほか,52~90℃),明礬(みようばん)温泉(含ミョウバン緑バン泉ほか,38~98℃)からなる。これらは地殻運動によって生じた断層線上に湧出する自然湧出泉で,とくに鉄輪温泉周辺に多い大泉源や大噴気孔は〈地獄〉と呼ばれ,地獄巡りは観光コースの目玉となっている。

 明治中期以降,人工掘削による温泉開発が始まり,湧出地はその範囲を広げた。現在,泉源数2850,湧出量は毎分約9万5000l。別府温泉のことはすでに《豊後国風土記》にも記されており,血池(ちのいけ)地獄は〈赤温泉(あかゆ)〉,海地獄は〈玖倍理湯井(くべりゆのい)〉とある。1871年(明治4)別府港ができて船を利用する温泉客が急増し,1902年の《大分県案内》に〈船舶出入の頻繁なる関西諸港中多く其比を見ざる所なり〉と記されている。当時の港である別府桟橋は,1967年に完成した別府国際観光港にその機能を譲り,また九州横断道路の一区間をなす別府阿蘇道路(やまなみハイウェー。1994年無料開放)がここを起点に走るなど,交通機関が整備された。JR日豊本線も通じる。それとともにホテルや旅館も近代化され,現在,年間宿泊観光客数は824万人にのぼり,観光消費額も2546億円(1995)に達する。映画館や飲食店などの施設も多く,中心商店街の楠町,銀座街,駅前通りにはみやげ物店などが並んでいる。近年,郊外への住宅地拡大がめざましく,石垣原古戦場付近から鉄輪まで住宅地化が進んでいる。別府国際観光港を通じて,阪神地方や広島,松山,八幡浜などとも航路で結ばれる。大分自動車道のインターチェンジがある。
鶴見岳
執筆者:

かつては豊後国速見郡に属した。地名の由来は,石垣荘に対する別の免符(別符)によって成立した荘園によるという説が有力である。1600年(慶長5)より豊前中津藩(翌年より小倉藩)細川領,横灘4ヵ村の内にあった。27年(寛永4)より旗本筑紫氏知行地,17世紀中葉より幕府領。この間一時期大名預地,藩領となる。94年(元禄7)に当地を訪れた貝原益軒は〈町あり,民家百軒ばかり,民家の宅中に温泉十所あり,いづれもきよし〉と述べ,つづいて湯治客は自由に入浴でき,乾浴,塩湯などがあることも紹介している(《豊国紀行》)。近世期を通じて入湯客の来訪も多く,1865年(慶応1)刺客に襲われ傷ついた長州藩士井上聞多(馨)は当地に身を隠し治療した。また,明治の社会運動家幸徳秋水も持病の胃病治療のため,しばしば滞在している。他の産業としては,温泉を利用しての薬用和明礬があり,17世紀後半から野田村,鶴見村などで採取された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「別府」の意味・わかりやすい解説

別府(市)
べっぷ

大分県中部、別府湾に臨む温泉都市。1924年(大正13)市制施行。1935年(昭和10)石垣(いしがき)、朝日の2村と亀川町を編入。平安末期、国衙(こくが)領で、特別の符宣で成立した特別区域を別符というが、この別府は石垣別符に由来する。JR日豊(にっぽう)本線が通じるが、別府駅は豊肥(ほうひ)・久大(きゅうだい)両本線特急の始発・終着駅ともなっている。別府国際観光港からは大阪、八幡浜(やわたはま)の航路を出す。東九州自動車道、国道10号、500号が通じる。大分空港との間はバスで結ばれている。

 この地は『和名抄(わみょうしょう)』の速見(はやみ)郡朝見郷(あさみごう)にあたり、『続日本紀(しょくにほんぎ)』には敵見郷(あだみごう)とあるが、熱海か熱水が原義と考えられている。江戸時代は大部分が天領で、文化(ぶんか)年中(1804~1818)に宿屋営業を許可された家が21軒あった。明治以降、水陸交通の発達や温泉掘削技術の進歩、さらに一般的経済発展によって、温泉都市として発展、1971年(昭和46)には年間観光客1000万を超えるに至った。このような発展は、温泉が質量ともに豊富なこと、火山性扇状地(石垣原(いしがきばる))と、その裾(すそ)に続く沖積地が展開し、市街地の発達を可能ならしめ、温泉掘削を容易にしたこと、山と海の風景に恵まれていることなどによると思われる。面積125.34平方キロメートル(境界一部未定)、人口11万5321(2020)。

[兼子俊一]

『『別府温泉史』(1963・別府市観光協会)』『『別府市誌』(1985・別府市)』


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日本歴史地名大系 「別府」の解説

別府
べふ

樋井ひい川左岸、別府一帯に比定される。「蒙古襲来絵詞」によれば、文永の役の際、菊池武房の攻撃によりモンゴル軍は赤坂あかさかの陣(現中央区)から二手に分れて退却し、一方の小勢は「べふのつかはら」へ引いた。同勢はさらに「つかはらよりとりかひのしほひがた」に出て麁原そはら(現早良区)に引いた大勢と合流しようとしたといい、当時別府の北方鳥飼とりかい(現中央区)には潮干潟が広がっていた。室町期には別府の八町余の地の領有をめぐって闢雲寺殿(大内教弘、嘉吉元年から寛正六年まで大内氏当主)の代に筥崎宮と大内氏の氏寺である周防国氷上山興隆こうりゆう(現山口市)との間で相論があり、沙汰を経て氷上山領鳥飼村のうちとされた。

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百科事典マイペディア 「別府」の意味・わかりやすい解説

別府[市]【べっぷ】

大分県中部,別府湾に臨む市。1924年市制。古くから有名な温泉地で,明治以後は交通の発達,上総(かずさ)掘による温泉掘削の成功により発展,各種の温泉療養施設もでき日本有数の温泉都市となった。温泉は市街地から鶴見岳山麓にわき,中心は別府,浜脇,観海寺,堀田,明礬(みょうばん),鉄輪(かんなわ),柴石,亀川のいわゆる別府八湯で,泉質は炭酸鉄泉,単純泉,弱食塩泉など多種,28℃。湯量も豊富で一般家庭も利用。多くの地獄や海水浴場をはじめ,水族館,遊園地,京大地球物理学研究施設,九大温泉治療学研究所がある。日豊本線,大分自動車道,阪神,広島から瀬戸内海航路が通じ,九州観光の玄関口をなす。125.34km2。12万5385人(2010)。
→関連項目城島高原

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「別府」の意味・わかりやすい解説

別府
べふ

兵庫県南部,加古川市南東部の別府川河口の地区。旧町名。 1951年加古川市に編入。このあたりには早くから化学肥料,農機具,製紙などの工場が立地。第2次世界大戦後は臨海の埋立て地に製鉄化学や製鋼厚板工場が進出し,重化学工業地化が顕著になった。

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世界大百科事典(旧版)内の別府の言及

【別府[市]】より

…大分県中部,別府湾に臨む市。1924年市制。…

※「別府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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