日本歴史地名大系 「海池村」の解説 海池村かいけむら 鳥取県:米子市海池村[現在地名]米子市皆生(かいけ)・皆生新田(かいけしんでん)一―三丁目車尾(くずも)村の北方、上福原(かみふくばら)村の東と北を占め、日野川河口部西岸に位置する。皆生村とも記され、藩の公用文書では海池・皆生両方が使用される。慶応三年(一八六七)領内限り皆生村と改めたという(藩史)。村名の由来は「伯耆志」には、日野川東岸の会見(あいみ)郡小波(こなみ)(現淀江町)から日吉津(ひえづ)(現日吉津村)を経て日野川西岸の海岸部を通っていた間道を海道(かいどう)といい、その辺り一帯の池を海道池といったことから海池村となったなどとある。当地の小字名には離池(はなれいけ)・丸池(まるいけ)・砂池(すないけ)・大池(おおいけ)など池沼の存在を示すものが多い。天正一五年(一五八七)三月一六日付の二通の大雄寺禅賀他三名連署状(伯耆志)に「車尾之内皆生村之儀、為新開罷出候」とあり、車尾のうちの海浜部が新たに開発されて当村が成立したとみられる。同年から三年間は「海共無役」とされ、当村の範囲は東は「今村之川迄」、南は「古屋敷」、さらに「西は奥皆生之小池二丁目下」と記される。また同一七年三月六日付の井上正重他二名連署状(同書)では皆生村は「御公領」とある。以上の三通の宛名はいずれも八幡新兵衛で、八幡氏は日野川中流八幡(やわた)から移住した尼子氏遺臣で天正年中当地を開発したと伝え、その最初の居住集落は元皆生(もとかいけ)(現福生一区)と称される。近世初期、当村に続く海岸部は出雲堀尾家の浪人らによって開拓が進められた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by