日本大百科全書(ニッポニカ) 「清巌宗謂」の意味・わかりやすい解説
清巌宗謂
せいがんそうい
(1588―1661)
江戸初期の臨済(りんざい)宗の僧。近江(おうみ)(滋賀県)大石の生まれで、俗姓は奥村氏。字(あざな)を清巌、自笑子(じしょうし)あるいは孤陋子(ころうし)と号した。9歳で京都・大徳寺の玉浦紹琮(ぎょくほじょうそう)(1546―1613)について出家し、玉浦の没後は賢谷宗良(けんこくそうりょう)(1557―1621)の弟子となってその法を嗣(つ)いだ。1625年(寛永2)大徳寺170世となる。細川忠興(ほそかわただおき)(三斎)と親しく、三斎創建の高桐(こうとう)院をはじめ、大徳寺の塔頭(たっちゅう)や堺(さかい)(大阪府)および九州各地の諸寺を歴住した。1649年(慶安2)には幕府の命により、品川東海寺の住持となる。晩年、後西(ごさい)天皇より清浄本然禅師(しょうじょうほんねんぜんじ)の号を賜った。千宗旦(せんのそうたん)参禅の師で、茶道に通じ、書画に秀で、その一行書(いちぎょうしょ)は茶席の掛物(かけもの)として大いに愛好された。古渓宗陳(こけいそうちん)(1532―1597)の語録『蒲庵稿(ほあんこう)』の編者としても知られ、また茶の湯に関する『清巌禅師十八ヶ条』を残している。
[松原 茂 2017年8月21日]