掛軸また掛幅(かけふく)ともいい,裂(きれ)や紙で表装(ひようそう)し,床の間に掛けるようにした絵または書をいう。その起源は中国北宋からで,〈挂軸〉の名で現れる。これは〈挂(か)け拝する〉の意で,ここに掛物の成立がみられる。さらに書画の表装の起りは,唐にさかのぼると思われ,書画を裏打ちし,表装し,軸と打竹(だようちく)をつけて横巻きにしたものが始まりとみられる。つまり横巻きの経巻にその起りがうかがわれ,大経師(だいきようじ),装潢師(そうこうし)などの名にそのなごりが残されている。また一面では,チベットから唐文化に流入した壁画崇拝から発して,その移動価値を高めるために掛物が発達したとも考えられる。この過程は,空海が伝来した仏画に類似した画(とうが)などにみられる。このように礼拝の対象として仏画の内容をもって生まれた掛物は,移動性と数量可増のために頂相(ちんそう)(僧の肖像画)として多くの崇拝者を得るようにもなり,これが仏教の普及とともに日本にも流入するようになる。初めは平安時代に主として密教を通じて輸入されたようだが,鎌倉時代に入ってようやく掛物流行の様相がみられ,さらに禅宗の影響から茶儀と結びつくようになった室町時代にいたって,掛物全盛時代がやってくる。これは唐物(からもの)趣味の荘厳(しようごん)に結びついたもので,掛物が仏教の偶像崇拝の目的から離れるのもこのころである。このようにして,山水花鳥を掛物としてその芸術を純粋に鑑賞するようになっていった。書についても同様のことがいえる。
このような発展過程をもつ掛物の飾られる場所は,はじめは仏殿(または本堂)の中央ないしは障壁の位置から,同じく仏殿の単なる一室の一面,そして貴族や豪家の居宅の一室へと移り,書院造の確立を得てようやく床の間に納まるようになる。そうして掛物も床の間に納まるように表装がくふうされ,逆に床の間も掛物をよく見せるようにくふうされるという相関関係をもつようになった。したがって室町末期以来日本において東洋古今の書画の鑑賞をする場合,屛風や障壁を除いて,ほとんどこの掛物という形式で,しかも床の間に納めることに習慣づけられてきている。その意味で掛物の表装は,油絵の額縁とはまた意味を異にしていると考えられ,建築と密接な関係がある。これには茶の湯の感化が大きい。掛物の内容は書画であるが,おもな種類には仏画,古画(山水画,花鳥画,人物画,詩画軸),装飾画,写生画,新画,墨跡,古筆,一行(いちぎよう),画賛,消息(手紙を表装したもの),色紙,短冊,懐紙,断簡(巻物を切ってその一部を表装したもの)などがあげられるが,その区別は画然としないものもある。また同種の内容のものを同じ表装で仕立てることによって対幅(ついふく)が生まれる。対幅には双幅(例:柿栗図,竜虎図),三幅対(例:観音,猿,鶴),四幅対(四季山水図),六幅対(屛風絵),八幅対(八景図),十二幅対(十二ヵ月)などがあげられる。なお,これらはいずれも対等の価値にあるが,三幅対の場合のみは三尊仏の影響もあって中がとくに尊重される。
→経師(きょうじ)
茶式の確立とともに図のような本表装(ほんびようそう)を正式とするようになったが,それ以後も内容に応じて形を変えることが少なくない。たとえば台張(だいばり)表装(色紙や短冊の場合),切抜(きりぬき)表装,絵表装(描表装),袋表装(仏画の場合これが多い),見切(みきり)表装などがあげられる。またその材料は古裂(こぎれ)が多く,紙も用いられる。そして一文字(いちもんじ)と風帯(ふうたい)は共裂を使い,中回し(ちゆうまわし)と上下は材料を変えて変化をつけ,一文字の裂に最上のものを用いるのを習慣としている。裂では印金(いんきん),金襴,銀襴,緞子(どんす),紗(しや),縫取(ぬいとり),漢東(かんとん)などが喜ばれる。本紙の種類には紙本(しほん)と絹本(けんぽん)があり,絖本(こうほん)も絹本の一種としてあげられる。また掛物はその形から縦幅(たてふく)(竪幅,長条幅)と横幅に分かれる。しかし表装の原則としてだいたい次のことがいえる。下の一文字の2倍が上の一文字,上の一文字の2倍が中回しの下,その2倍が中回しの上。軸に用いる材料は象牙,木(カリン,シタンなど),金属,堆朱(ついしゆ),陶,水晶などで,形において切(きり),撥(ばち),面取(めんとり),渦などの種類がある。
執筆者:小田 栄一
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掛軸、掛幅(かけふく)、また軸、幅ともいう。書画を表装して床の間や壁間に掛けて拝見したり鑑賞したりするもので、室内装飾に重要な役割をもつ。古くは、書と絵画の掛物を区別して、掛字、掛絵などとよんだ。
もともと掛物は、巻物(巻子本(かんすぼん))から転じたものといわれ、その表装の方法や技法に共通な部分が多い。わが国における掛物は、中国から伝来した方法を継承したもので、鎌倉時代に禅宗とともに将来されたものが基盤となっている。当時、宋(そう)音で発音される裱褙(ひょうはい)のことばが用いられたが、「ひょうほい」、「ひょうほえ」、「ひょうほうえ」ともいった。これは表装を意味し、それを職業とする裱褙師も活躍するようになった。すでに平安時代に、仏画の掛物が室内に飾られたが、これは仏台を設けて仏画を掛ける方法をとった。鎌倉時代以後、従来のこうした掛物に、大陸から渡来の新しい宋様式が加味され、さらに建築様式の変遷や茶道とのかかわりによって、しだいに今日みられるような掛物の形式へと発展した。
掛物が流行するようになったのは、中国の禅宗寺院の建築様式に倣い、書院造が発展して床(とこ)が設けられるようになってからである。鎌倉末期にすでに武家に取り入れられたが、のち室町中期の足利義政(あしかがよしまさ)の書院飾りもこれを受け、三幅対(さんぷくつい)や対幅(ついふく)(二幅)の名品が広間の床に掛けられた。それまで用いられた仏画のほかに、山水花鳥画が注目されるようになり、なかでも宋・元(げん)代の唐絵(からえ)が珍重された。また、書を床に掛けるようになったのは、唐絵よりも後のことで、わび茶の創始者、村田珠光(じゅこう)が、参禅の師、一休宗純から印可(いんか)の証(あかし)として授与された宋代の高僧、圜悟克勤(えんごこくごん)の墨蹟(ぼくせき)がもっとも早い例とされる。珠光の孫弟子にあたる武野紹鴎(たけのじょうおう)は、藤原定家(ていか)の歌論書『詠歌大概(えいかのたいがい)』の所説がわび茶の理念に合致することに感銘し、定家の「小倉色紙(おぐらしきし)」を初めて茶席に掛けた。これがきっかけで、ほかの定家の遺墨をはじめ平安時代の古筆(こひつ)も茶掛けに用いられるようになった。南坊宗啓(なんぼうそうけい)が師の千利休(せんのりきゅう)から聞き書きした茶道書『南方録(なんぽうろく)』では、掛物をもっともたいせつな茶の湯道具と考え、なかでも高徳の禅僧が書いた墨蹟を最高位に置いている。今日でも、唐絵、大和絵(やまとえ)、画賛物をはじめ、書における古筆、懐紙、詠草、色紙、短冊(たんざく)あるいは書状など、さまざまな掛物が伝存するが、それらはいずれも筆者を尊び、床の間に迎えて敬慕する精神が支えとなり、あわせてそれぞれのもつ美しさを鑑賞する目的をもって愛好されている。
[古谷 稔]
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…近世,女子が下げ髪から髷を結うようになると,髪飾は飛躍的に発達し,多種多様なものがでてきた。江戸時代には,櫛,簪,笄のほか,掛物といわれる手絡(てがら),丈長(たけなが),根掛(ねがけ)などが用いられた。掛物は元結と共に,いわゆる日本髪に使われる髪飾である。…
…砂糖菓子を意味する英語で,日本ではふつう洋風のあめ菓子をいうが,正しくは砂糖と水あめを主原料とする菓子の総称。水あめは砂糖が再結晶するのを防ぎ,適度の粘度と光沢を与え,風味をよくする役割を果たす。副材料としては,バター,牛乳,生クリームなどの乳製品やナッツ,果実類,さらにゼラチン,寒天,起泡剤,酸味料,乳化剤,香料なども目的に応じて用いられる。キャンディは,ほとんどが工場生産による製品で,材料と製造法によって各種の名称がつけられ,その製品名は2000種にも及んでいる。…
…その結果,天下人の儀礼的な茶道も担当することになり,茶の点前・作法といった儀礼的な側面も,茶会の形式も,茶会で供される茶の料理(懐石)も,利休のわび茶の思想によって整えられた。利休は大徳寺の古渓宗陳ら禅僧に深く帰依し,宗易の法諱も大徳寺から受けたように,禅の影響を強く受け,床の掛物に墨跡を重視するなど茶道に禅宗を一段と近づけた。しかし利休の茶道観は〈山を谷,西を東といいなす〉ような,常識を破る下剋上的な発想であったから,中央集権的な封建社会が完成し,下剋上の精神が封殺される時代になると,天下人にとって都合のよいものではなくなる。…
※「掛物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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