千宗旦(読み)センソウタン

デジタル大辞泉 「千宗旦」の意味・読み・例文・類語

せん‐そうたん【千宗旦】

[1578~1659]江戸初期の茶人。利休の孫。号、元伯・咄々斎とつとつさい茶道千家の再興に努めた。子の宗左宗室・宗守を分家させて、武者小路三千家基礎を築いた。

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精選版 日本国語大辞典 「千宗旦」の意味・読み・例文・類語

せん‐の‐そうたん【千宗旦】

  1. 安土桃山・江戸初期の茶人。利休の後妻宗恩の連れ子少庵と、利休の娘の間の子。字(あざな)は元伯、道号は元寂。号は咄々斎など。不審庵、今日庵を開く。千家流の茶道をひろめ、その子らを分家させて表、裏、武者小路の各流(三千家流という)の基を築いた。天正六~万治元年(一五七八‐一六五八

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改訂新版 世界大百科事典 「千宗旦」の意味・わかりやすい解説

千宗旦 (せんのそうたん)
生没年:1578-1658(天正6-万治1)

江戸初期の茶人,千家第3世。字は元伯,道号は元叔。別号に咄々斎(とつとつさい),咄斎がある。また〈乞食宗旦〉の異名をとる。父は利休の後妻宗恩の連れ子であった少庵宗淳,母は利休の娘亀女といわれる。幼くして祖父利休の意により大徳寺に入り,春屋宗園に喝食として侍した。早くから詩文をよくして将来を嘱目されたが,千家再興とともに還俗した。このころ長男宗拙,次男宗守をもうけている。1600年(慶長5)には少庵より家督を譲られ,本格的な茶会活動をはじめる。その後,後妻に迎えた宗見との間に三男江岑宗左(こうしんそうざ),四男仙叟宗室をもうけた。元和偃武(げんなえんぶ)の時代を迎えると,小堀遠州による〈きれいさび〉の茶がもてはやされるようになるが,宗旦は時代を逆行するかのように一畳半の座敷を構築して,侘茶(わびちや)の追求をはかる。祖父利休の悲劇をかえりみて,みずからは権勢に仕えることを好まなかったが,息子たちの就職活動には熱心であった。金閣寺鳳林承章を介して,近衛応山信尋,後水尾天皇の中宮東福門院の知遇を得る。70歳を過ぎたころに不審庵を三男江岑宗左に譲り,北裏に今日庵,さらに又隠(ゆういん)を建て,末子仙叟宗室をともなって隠居した。こののち宗左が4世となり,その系統表千家流に,仙叟の系統が裏千家流に,また次男宗守は官休庵を建てて武者小路千家流の初代となった。宗旦は京衆の堕落した茶の湯を嫌って独り茶を楽しむようになり,文字通り茶禅一味の侘茶に徹した。やがて息子たちの有付(仕官)や,宗旦四天王と称される藤村庸軒山田宗徧杉木普斎久須美疎安または三宅亡羊松尾宗二ら弟子たちも名を成して,千家茶道の繁栄が約束された万治1年12月19日,81歳の生涯を閉じた。
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百科事典マイペディア 「千宗旦」の意味・わかりやすい解説

千宗旦【せんのそうたん】

江戸初期の茶人。千少庵の子。千利休の孫。字は元伯,道号は元淑。別号に咄々斎(とつとつさい)などがある。江戸将軍家の茶道師範に招かれたが権勢をきらい佗茶(わびちゃ)の精神に徹した生涯を送った。〈乞食宗旦〉の異名がある。千家流を民間に普及,のち今日庵に隠居。子孫は三千家(さんせんけ)の祖に別れてそれぞれ発展した。
→関連項目表千家流千宗左千宗室千宗守飛来一閑藤村庸軒武者小路千家流又隠

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千宗旦」の意味・わかりやすい解説

千宗旦(せんのそうたん)
せんのそうたん
(1578―1658)

江戸初期の茶人。元伯と号し、元叔、咄々斎(とつとつさい)と称す。父は少庵(しょうあん)、母は利休の娘の亀(法名喜室宗桂)。少年時、大徳寺に入り喝食(かっしき)、ついで蔵主(ぞうす)となるが、1591年(天正19)祖父利休の死にあい、家に戻り、父少庵を助けて千家の再興にあたった。自身は大名に仕官することなく生涯清貧に甘んじたが、4子(先妻の子宗拙(そうせつ)・宗守、後妻の子宗左・宗室)の「有付(ありつき)」(就職)には奔走している。ただし長男宗拙とは不和となり勘当したため、千家の茶は3子が継承する。茶事の面では禅味を強調し、金森宗和との対比で「乞食(わび)宗旦、姫宗和」と称された。近衛信尋(このえのぶひろ)、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、本阿弥(ほんあみ)光悦、野間玄琢(げんたく)、金閣寺鳳林(ほうりん)承章、沢庵宗彭らと親交、とくに後水尾(ごみずのお)院・東福門院の恩顧を被り、女院に茶道具一式を献じている。高弟山田宗徧(そうへん)・杉木普斎・藤村庸軒(ようけん)・久須見(くすみ)疎安を宗旦四天王と称する。

[村井康彦]



千宗旦(せんそうたん)
せんそうたん

千宗旦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千宗旦」の意味・わかりやすい解説

千宗旦
せんのそうたん

[生]天正6(1578)
[没]万治1(1658).12.19. 京都
江戸時代初期の茶人。号は咄々斎,字は元伯。千少庵の子,利休の孫。初め大徳寺の喝食となったが,千家再興が許されたとき少庵とともに不審庵に帰った。利休の末路を考えて生涯仕官せず茶禅一味を提唱し,佗茶に徹したので「乞食宗旦」の異名さえあった。不審庵を江岑 (こうしん) 宗左に譲り,屋敷の北裏に一畳台目の茶室,今日庵を建て,それもまた仙叟宗室に譲り又隠 (ゆういん) で余生をおくった。武者小路千家,表千家裏千家の三千家の基礎を築く。宗旦の茶説は『禅茶録』にみられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千宗旦」の解説

千宗旦 せん-そうたん

1578-1659* 織豊-江戸時代前期の茶人。
天正(てんしょう)6年生まれ。千少庵(しょうあん)の子。母は千利休の娘亀。幼時に大徳寺で修行。のち還俗(げんぞく)し,慶長5年家督をつぎ,千家3代となる。生涯仕官せず,茶禅一味をとなえ,侘茶(わびちゃ)の完成につとめた。千家流は子の宗守,宗左,宗室の三千家に継承された。万治(まんじ)元年12月19日死去。81歳。和泉(いずみ)(大阪府)堺出身。号は元伯,元叔,咄々斎(とつとつさい)。
【格言など】愚者千人に讃(ほ)められんよりも,数奇者一人に笑われん事を恥ずべし(「宗旦伝授聞書」)

千宗旦 せんの-そうたん

せん-そうたん

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世界大百科事典(旧版)内の千宗旦の言及

【裏千家流】より

…千利休を開祖とする茶道の流派の一つ。利休の孫宗旦が不審庵を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北の隣接地に今日庵,寒雲亭さらに又隠(ゆういん)を建てて移り住み,それが末子仙叟に譲られたことにより裏千家が成立。現在の15世に至るまで,代々宗室を名のっている。明治以後,裏千家では職場を中心にした婦人層と女学校への茶の湯普及につとめ,茶道人口の増大を図ったほか,現在では海外への茶道普及にも力を注いでいる。 利休から数えて4世にあたる仙叟宗室は,はじめ医師を志して野間玄琢に師事し,玄室と称していたが,玄琢の死後千家に戻り,のち加賀藩主前田利常の茶道茶具奉行として仕えるところとなった。…

【表千家流】より

…利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…

【今日庵】より

又隠(ゆういん)とともに裏千家の中心をなす茶室。1646年(正保3)に隠居を表明した宗旦は,屋敷の北方に隠居屋敷を構え,そのなかに2畳の茶室を造立した。1649年(慶安2)4月,宗旦の茶に呼ばれた松屋久重が〈隠居ノ二畳敷,但,一畳半敷テ,残リハ板也,中柱有之,但ヌキハ無之候〉と書き留めていた茶室に当たる。すなわち,一畳台目に向板(むこういた)を入れ,向板の前角に中柱を立てて袖壁をつけ向板を囲ったこの茶室の特色がよくわかる。…

【茶道】より

…17世紀初頭の時代風俗である〈かぶき〉の反映ともいえる織部の好みは,織部に利休同様の切腹という悲劇をもたらし,茶道はその弟子小堀遠州の時代となる。遠州が活躍した17世紀前期は寛永文化の時代で,茶人としては利休の孫にあたる千宗旦,仁清の焼物を指導した金森宗和,遠州の跡を襲って将軍茶道指南となった片桐石州などが活躍した。遠州の茶道は利休風のわび茶をゆるめながら継承する一方,東山時代の書院の茶も復興し,また王朝文化の趣味を歌切の多用や趣向としての王朝文学の利用などのかたちで茶道に取り込み,総合的な茶の湯の展開を図った。…

【不審庵】より

…利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。これを受け継いだ江岑(こうしん)宗左が,父宗旦とはかり新しく平三畳台目に建て替えたのが,現存する不審庵の始まりである。…

【又隠】より

…京都上京の裏千家邸内に所在。1653年(承応2)千宗旦は隠居屋敷を江岑宗左(こうしんそうざ)に譲って再隠居した。そのとき造立した四畳半が又隠であると伝えられている。…

【わび(侘)】より

…ところが,中世の隠者たちの草庵生活では,それが世俗の名誉や利害を重んじる価値観・秩序観から自由であることを明示するあかしとして高く積極的に評価されるようになり,さらに武野紹鷗(じようおう),千利休らの〈侘数寄(わびずき)〉の茶の根本精神として深化洗練されていった。後の千宗旦著《禅茶録》には〈其不自由なるも,不自由なりとおもふ念を不生(しようぜず),不足(たらざる)も不足の念を起さず,不調(ととのわざる)も不調の念を抱かぬを侘なりと心得べきなり〉と簡潔に示されている。近世の松尾芭蕉もその草庵生活や旅のことにふれて,しきりに〈わび〉を語っているが,彼の意図するところも,われわれの日常生活がもたらす擬制の秩序や価値観から自由になり,世界内のいっさいの事物の有様をそのあるがままの姿に認識したいという願いに発している。…

※「千宗旦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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