清谷村(読み)せいたにむら

日本歴史地名大系 「清谷村」の解説

清谷村
せいたにむら

[現在地名]勝山町清谷

美作国西端部、月田つきだ(井原川)の河源に位置し、山に囲まれる。北は京見きようみ(八五四・二メートル)、東は児招坂を越えて古呂々尾中ころろびなか村、南は下岩しもいわ村、西は榜示ぼうじ峠を越えると備中国永富ながとみ(現阿哲郡大佐町)。中世後期、広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「せい谷村」、年未詳の檀那村書(同文書)に「おうくるひ(大来尾)村 一ゑん」「しようはら(正原)村 宿ハ おこ」「大くるミ九郎左衛門」、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)に「ミまさかのにしころゝひ之内大くるしひ村一ゑん やと九郎左衛門」など当地地名がみえる。


清谷村
せいだにむら

[現在地名]倉吉市清谷

天神川右岸、大平おおひら山麓に位置する。西は大塚おおつか村、北は田後たじり(現羽合町)長瀬ながせ宿(現羽合町)と倉吉町を結ぶ道が通る。河村かわむら郡に属し、拝領高は六四六石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高七〇四石余、高八六一石余、うち畑高六二石余、免五ツ九分。悪田加損米一三石、藪役銀四二匁、棟数七〇軒・役高一四〇人。男一三一・女一〇八で、ほかに禅門一・医者一・神職舟越大和家内七。産土神の上里うえさと大明神(現上里神社)、御国札第一五番の観音堂があった。幕末の六郡郷村生高竈付では生高八六一石余、竈数八五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android