勝山町(読み)かつやまちよう

日本歴史地名大系 「勝山町」の解説

勝山町
かつやまちよう

面積:一三八・五〇平方キロ

郡の南西部にあたり、旭川の本支流が縫って流れる山間台地と、川に沿った谷状の平坦部からなる。郡の行政面での中心的な役割をもち、東は久世くせ町、西は阿哲あてつ大佐おおさ町、南は上房じようぼう北房ほくぼう町ならびに落合おちあい町、北は山中さんちゆう地方の湯原ゆばら町・美甘みかも村に接する。北にほし(一〇三〇・三メートル)三坂みさか(九〇二・五メートル)などをはじめ標高八〇〇メートル級の山が並び、南は月田つきだ川を境に吉備高原北端に連なる。月田川は荒田あらた新庄しんじよう川に合流し、新庄川は勝山で旭川に合流する。星山ほしやま水源とする神庭かんば川の上流には神庭の滝がある。国道一八一号が旭川・新庄川に沿い、勝山で町域東部を南北に通る国道三一三号と分岐する。また町南部を東西に月田川に沿ってJR姫新線が通り、中国勝山・月田・富原とみはらの三駅が置かれている。

町の中心の勝山はもとは高田たかたと称し、室町時代関東から入部した三浦氏が高田城を築き近隣を支配した。城は如意によい山とその南の勝山とからなる大総山にあり、戦国時代高田は内陸部の要衝で、尼子氏・毛利氏・宇喜多氏の争奪の対象となり、天正四年(一五七六)三浦氏は毛利氏によって滅ぼされた。


勝山町
かつやままち

面積:三三・九四平方キロ

京都郡の北西部に位置し、北は北九州市小倉南区、東は行橋市、南は犀川さいがわ町、西は田川郡香春かわら町に接する。北西部は平尾ひらお台南麓およびりゆうばな(標高六八〇・六メートル)南東麓の山地、西部および南部も西境にある障子しようじヶ岳(四二七・三メートル)と南西端近くにある飯岳いいだけ(大坂山、五七三メートル)から山地が延びる。竜ヶ鼻を源流とする長峡ながお川が中央部を南東流し、同川および支流の初代はつしろ川・矢山ややま川流域に平地が開ける。行橋市から香春町に抜ける国道二〇一号が中央部南寄りを横断する。古代以来京都郡に所属。ただし江戸時代から明治期には矢山村のうち上矢山地区は企救きく郡に所属。

大字黒田くろだにある橘塚たちばなづか古墳、綾塚あやづか古墳はいずれも国指定史跡。古代の京都郡諫山いさやま(和名抄)は当町域を含んでいたと推測する説がある。


勝山町
かつやままち

[現在地名]長崎市勝山町・桜町さくらまち上町うわまち

今博多いまはかた町の北西にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ東西に形成され、東は北馬きたうま町に隣接する。町の一部はボウブラ町と称した。近世初頭、勝山町域に耶蘇宗門の寺が建立されていたが(山口家本「長崎根元記」)、慶長一九年(一六一四)幕府が派遣した山口直友が肥前唐津藩の士卒を動員して当地などの切支丹寺を破却したとされる(長崎志)。これはサン・ドミンゴ教会とされ、跡地に碑が建つ。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「ほうらや町」「ばうらや町」とみえるのはボウブラ町と考えられ、キリシタンの「理庵」「とめい」が署名している。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺に「勝山町」とみえ、平戸ひらど町の松岡久右衛門の奉公人まつの父は肥前唐津からつ生れで、慶長一九年頃馬町に来てキリシタンになったが、寛永三年から同五年まで在勤の長崎奉行水野河内守守信のとき転び、禅宗の晧台こうたい寺を請寺とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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